いもうとが新居に飾りたいという書を書く。
ひとつは二人の姪の名前に入っている「珠」という字。 もうひとつはフランス語が好きないもうとが好きな「Tout va bien」というアルファベット。 アルファベットの練習は中学生の頃筆記体を練習した以外にはなく、どうしたもんかといろいろ試して書いてみる。 漢字よりもひらがなよりもアルファベットは線が少なく風情に欠けるので一体どうすれば様になるのだろうと、それこそ筆に任せて書いてみる。 もちろん、アルファベットが風情に欠けるとしても、字としての記号「Tout va bien」を書くというルールはあっても、いくつか過去に見たことがあるアルファベットの書作品もあまり印象には残っていないので自分の頭の中のネタが乏しいのである。 やっているうちになんだか笑えてきた。 私はこういうことができなかったはずだ。 もっぱら絵は描けないけれど、絵でいえば、今でさえ、例えば旅のイメージを何でも自由に描いてみて、というのが一番困る。 今はほんの少し、イメージを体現する、という言葉の意味が私の中でイメージが付くけれども、かつては、イメージを何でも自由に描いていい、ということのイメージが全くもって湧かなかった。 イメージを具現化するには、誰かに見せても笑われない何か信頼のおける「旅」のイメージと、それを体現する技術が必要だ。 まあ今でも強くそう思っている反面、たとえ自分の抱く「旅」のイメージが世間的には信頼のないもので笑われるだろうと予測できても、また自分の「旅」のイメージを具現化する技術がなかったとしても、その「旅」のイメージを形にする勇気や、たとえ理解されなくて笑われることも辞さない勇気さえあれば、描けないなんてこともないのだろうけれど。 そして一方で、技術が成す良さも、様式における美も確実に存在するものだとも思うけれども。 私は書において、漢字やひらがなを書くときだって、紙面において、字そのものにおいて、明確ではないものの”作品のつくり方”のような様々なルールの範疇で試行錯誤しながら書いている。 採用しているのは、記号としての字であれば良い、という最低限のルールのみでは全然ない。 しかしアルファベットは漢字やひらがなで私がよくやるやり口のいくつかは使えない。 まず横書きということも、私は普段は滅多にやらない。 とりあえずそれっぽくなるように書いてみる。 筆で書いているのだから線にこだわることと、微妙に墨の質や濃さをを調合、調整しながら。 何十枚か書いてみて、だんだんとまとまっていく一方で、だんだんと派手さを増してきた。 いつもは意図的に飛ばすことは意図的に避けている飛沫を飛ばす行為もしてみる。 書道というよりは、墨を使ったペインティングのようになってきた。 乾いてみないとなんとも言えないけれど、こんな感じで良いかなと出来たものは、よくありそうなアルファベットの筆文字の様相を呈しながら、それでも私が書いているのだなといういつもの感じが滲んでいた。 いつもはやらないイメージの具現化へのほんの小さな勇気を持てた自分自身に少しの微笑ましさと、いつもの小さな私が混在していた。 なんだか笑ってしまう。 久しぶりにご飯を炊いて、お味噌汁を作る。 IHヒーターの電源を消し忘れて、お味噌汁が長い間沸騰していた。 味噌は入れたら沸騰させてはいけない、風味が飛ぶし煮詰まってしまうから、といういつかに観た「きょうの料理」の教えを頑なに守ってきていたのに。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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