夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでいる。
長編で奇書だと言われているあの作品である。 と言ってもまだ2000ページの100ページほど。 2000ページというのはスマートフォンの青空文庫でのページ数である。 電車で音楽を聞いているのにやや飽きているので、本でも読んでみようかと思った次第だ。 文学部出身の発言ではないが私はあまり本を読まない。 本の虫なのではないのかと言われることもあるくらいだが、本当にあまり読まない。 言葉の世界は好きだけれど、読書には実際に苦手意識があるほどである。 ではなぜ「ドグラ・マグラ」を読んでいるのか。 長すぎてよく分からない、との評をよく耳にする気がする「ドグラ・マグラ」だ。 よくもそんなものに手を付けたものだが、青空文庫はたまに覗いていて、種田山頭火や太宰治の短編を読むことがある。 これは、書作として書きたい言葉を探しているということもある。 著作権が切れた青空文庫内の本は無料で読み放題だから、ダウンロードして読まなくても損はしない。 だからかの有名作を読んでみたい、と興味本位でダウンロードしてみたら案外文体は読みやすく、スマートフォン100ページくらいは簡単に読み進められた。 と言っても、大抵電車の中くらいしか読まないので100ページなのだけれど。 どの作家の描写が好きだと言うほど私は多くの作家を知らないけれど、あと、大抵の作家の文章はどれもやはり上手いと思う、「ドグラ・マグラ」の細かな情景描写や文章全体がなんだがとても気に入った。 勝手に作った造語でない限り、言葉は全て誰もが“在る”ことから借りて喋ったり書いたり思考したりするわけだけれど、無論その言葉の組み合わせやその順序などによって無限の世界が生まれる。 ある事象を的確な言葉でズバリと言うのが上手い作家、小説そのもののプロットが上手い作家、文体そのものが醸す雰囲気を作るのが上手い作家、などいろいろいると思う。 もちろん作家たるものはその複合的な上手さで作家たり得ているのだと思う。 中でも、私は独特な個人的な言葉の組み合わせや言い回しをする作家に心を惹かれるような気している。 文章だけに限らず、音楽も絵や書もその独特さがあるものに惹かれているように思う。 全て“在る”ものを借りている謙虚さをしっかりと胸に抱き、それでも必死で己の感覚に従ったものに。 皆自分のやり方でやっていると言えばそれまでだけれど、案外それが表現として叶っているという場合は少ないのではないだろうか。 どのこともほとんどがこれまでに誰かがやってきたことで、それをまるで我が物かのようにまるで同化させてさせてやってしまっていることばかりなのではないかと思う。 それが別に悪いことではないのだけれど、自分のことさえも盲目になってしまうのは、作家としては好ましいとは言えまい。 「ドグラ・マグラ」には、そんな作者の言葉への敬意が感じられるような気がした。 まだ、スマートフォンで100ページなのだけれど。 「ゆとりですがなにか」のその後をやっていた。 ライトな社会風刺もさることながら、宮藤官九郎のウィット感というのはたまらない。 今は、矢野あきこをシャッフルしながら、新しい仕事をしている途中でこれを書いている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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