「竹内」と格闘すること最後にもうひと晩。
どんなに書いてもやっぱり新しさを持った「竹内」は生まれなかったけれど、今私が表札を書くにできることはやり尽くした気がする。 もうこれで兄に送ろう。 反故の山、やま、ヤマ。 書はお金のかからなくて一生できる良い趣味だ、といつかどこかで聞いたことがある。 場所も取らないし、音も出ないし、家の中でできるし、持ち運びもできるし、ひとりでやれる。 例えばバイクとかゴルフとかピアノなどに比べて。 確かに、音はあまりでないし、ひとりでやれる。 小さな紙と小さな筆と墨があれば、それはそれで一通りのことが事足りる。 もちろんそれだけでも無限の世界が広がっている。 しかし、大きな筆で書く大きな書にはそれなりの良さがある。 それでしかやれないことがある。 そうしたら、紙も筆も下敷きも墨汁も大きくてたくさん必要になる。 紙も墨も、一品を買って思うがままに使いまくっていたら例えばバイクよりもお金がかかることもあるだろうし、ピアノよりも場所を取る。 家ではなかなかびしゃっと墨をまき散らしてなんてできない。 制約は何だって生じるし、道具類やサイズを求めようとしたらキリはない。 どんな種類の芸事もそれぞれに、日常生活にそぐわない面があるだろう。 コントラバスの奏者が電車に乗っているのを見かけるとき、例えばそれがハーモニカ奏者だった方が格段に移動の悩みは少ないだろうなあと想像する。 でもハーモニカ奏者にはハーモニカ奏者の悩みがあるだろう。 電子ピアノやエレキギターのように音量が調節できないとか。 それでも自分はそれがいいと思って、どうにかこうにかやろうと日常生活にそれを食い込ませる。 というよりそれがその人の日常生活の一部なのだから仕方ない。 反故の山とゴミ袋の重さを感ずるたびに、自分がやっていることの物質的な無駄さを思う。 野菜や肉を喰らうことと同じようなことだけれど。 その面において言うと、音楽は作品が電子的に保存されるから、あるいは練習も音となって消えてしまうから、物質的無駄は少なそうで羨ましい。 まあそんなことを羨んで、だからと言って物質的無駄を減らすために私が今から書のように音楽をやるかと言われたらそうはしないのだろうけれど。 先日、井上有一の「書の解放」を読了、「天作会」という井上有一を敬愛する人たちのグループ展にも行ってきた。 帰ってきて、井上有一の本の一節を借りて書にする。 私が思っていた「字はみんなのもの」ということが書かれている。 書家が書を独占しているつもりでいること程、滑稽なことはない。 書は万人の芸術である。 日常使用している文字によって誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。それは丁度原始人における土器のようなものであるのだ。 書程、生活の中に生かされ得る極めて簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい。 書は、万人のものである。書を、解放せよ。 書家よ、その看板を下せ。誰人もみな書家であらねばならぬ。 書家よ、裸(はだか)になれ。思い切って一切を棄てて、一個の人間として出直せ。私は、何よりも先ず、私自身に向って、こう叫ぶのである。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|