以前は実家に帰る新幹線の中から、あるいは皆が早くに寝静まってしまった実家から、スマートフォンでブログを更新していたのだが、子どもを見ながらではそれも叶わず、すでに新年も5日である。
2020年、あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 年賀状を出そう年賀状を出そう、と生徒さん達には2,3か月前くらいから指導していたのだが、自分のものはなかなかアイディアがまとまらずについに29日。 夫とコラボレーションしようと思っていたのもいけなかった。 私の中での創作物は、ひとりで完成をさせる他ないものなのである。 結局夫には何枚も書いてもらったものの不採用というかわいそうなことになってしまった。 夫と私と息子の足跡をスタンプ台でとって、スキャンして比率をそのままにはがきサイズに縮小印刷、その上から息子の名前をどんと書いて、ちょっとした新年の挨拶を書いた。 今年は全員分を手書きで書いている時間は毛頭ないので、一枚完成品を作ってコピーすることにした。 丁度良い色味とか絶妙な配置とか、細かなところまでは全然思い通りにいかなかったけれども、30日の夕方ごろには夫の分も合わせて100枚以上にもなる宛名書きを手書きで完了し、投函することができた。 まあ、元旦には届かなかったであろうが。 けいこは夫と私と息子の大中小の足跡がすべて息子のものだと思ったらしい。 デザイン的にもあまりうまく伝わらなかったのかもしれない。 作品づくりにおいて、構想の段階も、実際に書く段階も、やはり焦って良いことは何ひとつない。 どの段階においても、アイディアや出来を一旦寝かせて、時間を経過させて冷静な目で見てみることは大切である。 そのときは良いと思っていても、後々そうは思わないことも多々ある。 しかし、「そのときは良い」と思っているのだから、「そのとき」に「後々そうは思わないかもしれない」からそれで決定とせずに、出来立てほやほやの熱い気持ちをなだめないといけない。 後日の鑑賞に堪えうる作品、というのが良い作品であるということは疑っていない。 事実、私はよく書けたと思う作品を半年とか1年というスパンで壁にかけていて、半年で飽きてしまうものがあったり1年で飽きてしまうものがあったり、まだまだいけると思うものがあったりする。 今年の年賀状は、それぞれの段階すべてに寝かせと練りが足りなかったなあと思っている。 私の年賀状には儀礼的な意味はほぼないと言って良いので、何のためにやるかと言えば作品作り、作品披露のための自己満足である。 となると、今年は育児という大きな言い訳を抱えながら自分に負けたということになる。 今年は3月か4月か、やはり息子を保育園に預けようと思う。 息子と離れがたくもあるけれども、自分自身の趣味ごとからも離れがたいのである。 息子はべらぼうに可愛くもあるのだけれども、自分自身の頭が衰えていくような気がするのは耐え難いのである。 日々変化していく息子に対して、日々対応を変えていくわけで、ならば保育園に行っても尚、その対応を常々変化させていけば良い。 保育園に通わせる前から保育園を辞めるかもしれない想定も早計過ぎるが、保育園というのは私たちの生活において大きな変革になるだろう。 最近フェイスブックの書のグループで「骨董になりうる作品」というテーマのグループがあり、そこへ私も投稿を行っている。 卒意、衒わない、素の自分の字、上手く書かない、そんなことを醸しつつ、わびさびの世界に通じるような作品。 このことはまた書こうと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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