春の温かさを感じ取って土の中でもぞもぞと蠢き出したかのように、息子は年明けから急に何かに気付いて、この世界の動く範囲を格段に広げてきた。
これまでは寝返りが仰向けからうつぶせになると戻れなかったのだが、そこから仰向けになる技術を得て、裏表うらおもてと回転を繰り返して布団一枚分くらいは楽々と移動している。 事実上、障害物がなければ平面であればどこにでも行ける。 前にあるおもちゃなどを取ろうとして、前方にもわずかにじりじりにじり進んでいる。 静かだなと思うと、観葉植物をひっぱっているか、おもちゃにかじりついているか、おしりふきをたくさん出してこれまたかじりついているか。 成長は喜ばしいが、危険も多いので、さっそくベビーゲートとプレイマットを購入する。 さながら人間檻である。 その檻に私も入って一緒に寝たり遊んだりする。 テレビの目の前が檻なので、檻越しにテレビを見ることになってしまって非常に見づらい。 そういえば「グランメゾン東京」のドラマは日常娯楽におけるテレビドラマとして、とても素晴らしかった。 テレビドラマ好きとしては、このブログ記事に何の脈絡もなくても記しておきたい。 ところで、東京に来てもはや15年以上が経過した。 私の母語である三河弁と所謂標準語との区別は無論年々明確になってきていて、さすがにもう無自覚的に三河弁を東京で使うことはないだろうと思っていた。 しかしながら、三河弁をもちろん正しいというか一般的なものであると育ってきているので、誰かに指摘されたり自分で気づいて調べるなどしない限りそれは分からないのである。 「引き出しをさばくる」「鍵をかう」「これさら食べる」「とごる」などは上京して数年して方言であると知ったものである。 ちなみに、「さばくる」は引き出しの中を乱雑に探す、「鍵をかう」は鍵をかける、「これさら」は「これごと、これのまま」、「とごる」は砂糖などの粒子が解け切らずに沈殿することを言う。 昨日またひとつ新たに方言だと知った言葉がある。 「風呂にすくむ」。 すくむ、というのは、竦むであり、立ち竦むなど恐怖で身を縮める意味があることは知っているが、風呂にもすくむのである。 湯船に深く浸かるといった意味合いである。 用例は、「ちゃんとすくんで出ておいでんよ」といったふう。 私は地元のことをほとんど愛してはいないが、方言が話せることについてのアイデンティティはどこかしらまだ欠片を手放していないように思う。 かつて合わないように感じていたあの地から離れることができたのは当然ながらあの場所があったからであり、そして今、ここではないどこかにあの日の居場所があったという事実は、少し勇気づけられる気がしないでもない。 東京の都心生まれの息子にとってみれば標準語こそ母語になる。 お母さんの「トウキョウ」は、息子の「東京」なのである。 将来、ここから離れることはいくらでもできるが、「上京」はできない。 息子は日々着々と大きくなるが、まだ息子が青年になったりおじさんになる想像がつかない。 おじさんやおじいさんになるまで元気に生きてほしい、そんなふうに本当に切に母は思うものなのだなあと心がぎゅうっとなる自分に感心している。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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