水のような丸ごと桃のケーキ。
水のような湧き水割り焼酎。 水のようなしっかり食パンのトースト。 水のような、というよりはお湯のような水茄子の天ぷら。 水のようで美味しい、と私は数々の食べ物に対して言ってきた。 とってもとっても褒め言葉、である。 桃ケーキも焼酎も水茄子天ぷらも「水のような」という表現は、「水分がたっぷりで瑞々しい」ということと結びついて分かりやすいかもしれないが、私の言う「水のような」は、水分が少なめのトーストにだってどんぴしゃりで充てることができる。 私のイメージだと、「水のような水餃子」「水のような水饅頭」はもちろん、「水のような焼き餃子」「水のような芋羊羹」も容易に存在しうる。 しかし、容易に、といってもそういった「水のような」食べ物は出会うこと自体はそんなに多くはない。 アクエリアスはここで言う水のようではないし、約90%が水分だという胡瓜も水のようではないものの方が多いだろう。 これらに共通することは、透明感、なのだ、水分量ではなくて。 透明、なのではなくて、透明感。 クリア、ではいささか違って、クリアー、の方がしっくりくる。 味がしない、ということではないけれど、水のような透明感がファーストインプレッションとして上に立ち、その裏側に透けて感じられるそれぞれの味がある。 透明感がないと美味しくないわけでもない。 それに、もっと言うと、水のようなそれらは「とってもとっても美味しい」といういうわけではない気もする。 何かを食べている心地というのは、その透明さに持っていかれて実感に乏しい。 食べ終わった実感にも乏しい。 私は何を言っているのだ。 いやしかし、私は「水のような」食べ物がとても好きみたいだし、透明感は言わば私の“憧れ”のイメージのようなものにも近いかもしれない。 描いてきた理想や憧れが、本当は自分にフィットしていないのかもしれない。 と、最近そんなことを思うことがある。 そもそもここで言う理想や憧れというのは、ほとんど輪郭もないような漠然としたものだけれども。 大それたことではなくて、とっても身近で、些細なこと。 その理想や憧れが間違っている、と自分が受け入れることは、分からないうちは勇気が要る。 今まで大切にしてきた何かが価値を持たなくなるわけだから、無意識に拒否感が働くのも当然のように思うし、分かりたくないわけだ。 しかし分かってしまったと同時に、おそらくそれは受け入れられていることになるだろう。 そして分かった後も、現実的にはさして何も変わらない。 そんなことの繰り返しで、何だかよく分からない自分自身について、捻れを一つひとつ解いて行けたら良い。 それもそうだし、覆い隠された内在的謎解きだけに人生を費やすのは勿体ない気もする。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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