8月。
息子は週明けから保育園に行くのを嫌がった。 彼にとって保育園は仕事場みたいなもので、集団生活の中である程度気を使い、社会的に過ごすやや窮屈な場所なのだろう。 少人数制の今の保育園は、本当に手厚く手厚く接してくださっているが、無論家の開放感とは異なるだろう。 楽しいことも沢山あるだろうが、給食ひとつ取っても、彼は精神を自ら整えて臨んでいるに違いない。 何せ給食で食べるものを家ではほとんど食べないのだから。 来年度までの転園について、数箇所の保育園を回ってすっかり飽きてしまっていた、私が。 近くの、比較的小規模の、かなり都会的な保育園が良いかなと目星がついたこともある。 いもうとに言わせれば、4月入園ではなく、その前に転園しておくべきだ、とのこと。 4月は先生も園児も親も余裕が無いから、可能な限り入園のごたごたを避けるべき、らしい。 もちろん正論だと思っているが、今の園に御恩がある気がして、最後まで見てもらえると良いなとも思っている。 しかしながら、やはり最も考えるべきは息子の負担であるから、ここは早めの手続きが必要だろう。 9月になったら役所に出向こう。 先日、とあるきっかけがあって人生で初めて裁判傍聴に行った。 神奈川県で起きたある殺人事件の裁判。 奇しくも、私の身近には法律、法学をやっている人が多く、私もその周りのことについて平均よりはだいぶ詳しいのではないかと思う。 法律の中身を知っているということではなく。 初めての裁判傍聴は、人気の?事件だったようで満席だった。 このコロナ禍において、こんなに密集して座り、施錠もされて無換気状態の部屋は珍しいと思う。 映画館のような椅子だったが、映画館と違った後ろの席が高くなっていたりしないので法廷は見えづらかった。 腰縄と手錠を付けて、刑務官に連れられた犯人は、スーツを着て黒縁眼鏡をかけて、髪を綺麗にまとめた非常に線の細い女性だった。 この人が……瞬時に様々な思いが過った。 意見陳述といって、検察側の被害者の父母が滔々と語るところから始まった。 続いて検察官の求刑、15分間の休憩を挟みつつ、弁護側の反論、そして被告人の意見(謝罪)。 現実は小説より奇なり、というが、まさにそうなのだろうと思う。 しかし私は目の前の裁判の内容が、実感を持った現実のものとはなかなか思えず、終始殺人小説のドラマを見ているような気持ちだった。 裁判の話を聞いていても何だか不可解な点が沢山あるように思えた。 沢山の情報の中からほんの一部分をこの場で話しているに過ぎないのだろうけれど。 しかしながら、裁判官や裁判員に来る情報というのは、ほとんどこの法廷という俎上以外のものは無いのではないか。 同じ内容が書面であったとしても。 となるとおよそ私が聞いた情報だけで、判決を下すということになるのだろうか。 この裁判は裁判員裁判だから、私のような素朴な疑問には公判以外の別の場所で答えてもらえるものなのだろうか。 殺されてしまった被害者は返ってくることはないし、被害者家族は被害者のいない人生を延々と送ることになる。 被告人は十数年の懲役刑となり、出所した後はどう生きていくのだろう。 そしてこのような仕事に携わる人は大勢いて、当然ながら私とは異なる世界線を生きている。 横浜地裁を後にすると、やけに空が青かった。 横浜の建物は荘厳で、石造りだからか建物の中はひんやりとして気持ちが良かった。 近くにあったレストランで昼食をとる。 私は枝豆の冷製スープを美味しくいただいた。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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