冬だから、久しぶりにごった煮を作る。
必殺、ごった煮。 必殺されるのは、私。 定番の白菜と豚バラとえのきのシンプルなごった煮。 白菜4分の1に、大きめのえのき一株を成功の素となった。 えのきは多い方が美味しいみたいだ。 いつもは生姜を入れるけれど、冷蔵庫のポケットに生姜が干からびて何かの死骸か化石のようになっていたので思いとどまる。 いつもは唐辛子も入れるけれど、一味唐辛子の粉末を買ったので後追いでそれをかけることにする。 白菜がとにかくぐだぐだになるまで煮る。 塩を酒を適量入れて、あとは、いつからあるのか冷凍庫の中の鰹粉をざざざっと。 だいたい煮えたら軽く味見をして醤油を回し入れ、塩も少し追加。 白菜とえのきと豚バラ、それぞれの良さを持ち寄った出汁はえも言われぬ滋味深い味わいがある。 匂いは実家のお雑煮のようだ。 実家のお雑煮にえのきは入っておらず、大抵鶏肉だったように思うが、魚のだし粉に白菜と豚か鶏の肉が混じると、お雑煮を思い出すように私の脳には記憶されているらしい。 とろみまでが似ている。 お雑煮の餅が付けているとろみだと思っていたがそうではないのか。 ぐだぐだに煮上がったごった煮に一味唐辛子を5振りほどして食する。 久しぶりだ。 私の味。 本当に、大好き。 タイミングよく、「100分で名著」という番組で伊集院さんが、「今日俺、すげー美味いものが食いたいわけではなくて、美味いかどうかわからないようなどうでも良いものが食べたいときもある」という話をしていた。 「すげー美味いもの」というのは、高級な牛ステーキかもしれないし、有名ラーメンかもしれないし、ジューシー唐揚げ定食かもしれないし、鮮度の良い刺身なのかもしれない。 それらは要するに、うま味成分に満ちていて、糖質と脂質がたっぷりで、直に脳天を射抜いて興奮するような刺激物ということだろう。 以前、「食べたいものは毎日変わる」と言った伊集院さんの言葉で私は救われたような気分になったことがある。 好きな食べ物と言われてもなかなか決めることができなかったからだ。 あと、美味しいものを食べないと人生を損しているというような脅しが蔓延っているように思っていて、私自身も美味しい物だけを体に入れたい、というふうに最近思ってきた気がするけれど、実際には全然そんなことはなくて、不味くはないただのカロリー摂取のような食事をすることも多い。 その度に私は薄い罪悪感に似た感情を抱いていたのだが、伊集院さんの今日の話でまた一つねじれが解けそうな気がしている。 美味しいものは正義、と確かに思う反面、美味しいにそこまでの労力を割けないことも多々ある。 今回の場合、その状況下において、私は心底残念だと思っていなかったのであるが、残念あるいは損しているだと思うように脳の奥で思考を書き換えてしまっていた、そんなところだ。 大切なことは、得体の知れない脅しに屈しない、ということか。 思考、思念というのは実にややこしい。 圧倒的に刺激度の低いものの方がしっくりくることもある。 しかし私は自分で作るごった煮が大好きだけれど、あえて人に勧めようとは思わない。 このぐだぐだな感じは、他人様に食べてもらうには一抹の勇気を要する。 それは私という人間性までもが、まさにごった煮として煮込まれているように思うからなのかもしれない。 いや、本当は食べてもらいたい。 食べてもらって、すごく心の底から共感してもらいたい。 ごった煮は作るときによって結構具材や味を変えるのだけれど、“私らしさ”にはおそらく一貫性があるような気がするので、そこを見つけてほめてもらいたい。 そうしてもらえるのなら、ぜひ、食べてほしい。 ということがとても難しいということが分かっているから、あまりしないのかもしれない。 実際のところ、二度や三度ほど、私は私のごった煮を人に食べさせたことがある。 「何かよく分からないけれど旨い」と言ってもらえたこともあって、私にはその人がまあまあ本気で言っているであろうと思えたことは、良き思い出である。 「シン・ゴジラ」がテレビ放送していたので録画して観た。 最後15分で眠たくなって寝てしまったが、とっても面白かった。 あんな生物が上陸してくると言うのに政府も人々も怯えなさすぎだと思うのだが、それも含め人間模様の描写があまりないところが良い。 あの手の映画は苦手だと思っていたが、東京住まいとしてはやはり見慣れた東京が破壊されていく姿には思うところがあるものだ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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