句会があったり、誕生日だったりして、明日からフィリピンに行く。
歌留多して少年の笑み怯えたる カップ麺熱き自由の五日かな 寒風やキンとおでこにカキ氷 とりあえずどきどきはして年は明く 乳飲み子も九十路でも初笑ひ 艶出され漆麗し雑煮椀 去年今年またいで日付変更線 こじんまりした新年句会にあたって考えた句たち。 上三つを出して、うち上二つが入選となった。 これまで10回ほどは句会に参加したことがあるが、まだ“ぼうず”だったことはない。 何かしら引っ掛かるのだけれど、特選も2度だけだ。 ほっとしていたり、悔しかったり、いや自分にとっての最高の句に集中しようと思ったり。 いつかに、「君に”はぐれ優等生”という名を与えよう」と言われたことがある。 うぐ、となったことを覚えている。 優等生であることは別に悪いことではないだろう。 というか、所謂優等生であっても劣等生であっても個々本人たちが何か内的な屍を越えていくという点においてはあまり関わりは無いと思う。 日常的にブログを書くこともややままならない感じの日々であるが、また日常的に俳句を作りたい。 やらなくても良くて特にやりたくないのに何となく能動的にやっていることはおそらく生活の中にたくさんある。 それにはまずそれに気づかなかなければならないし、気づいて必要であればそれを止めたり改善したりする勇気を持つことも必要である。 一方で、やりたいと言ってやってやれないことをやらないのは、別にそんなにやりたいことではないとも言えるのだけれど、自分にとってハイレベルの喜びを得るには、日々の鍛練が必要であることが多い。 鍛錬は喜ばしいことばかりではないし、かと言ってその苦労が素晴らしいとは言わないけれど、、それでもその先のそれが欲しいとなれば、日々根性はとりあえず出すしかない。 花の定期便の菜の花が、切り花であるにも関わらず、太陽の方向に向かってにょきっと伸びている。 植物の生命活動というのは本当に不思議である。 水と光のみで目に見えるほどの体積を増やしてしまうのだ。 伸びて伸びて、花瓶を自ら倒してしまうというのが、菜の花の自傷行為あるいは自殺行為か。 果たしてどこまで伸びるのだろう。 切り花である自分の体重を鑑みて成長が止まるのだとしたら、今後菜の花への視線が変わってしまいそうである。 けいこにこのホームページの存在がばれたらしい。 けいこはガラケーなのだけれど叔父がこれを見つけてスマートフォンで見せたのだという。 誕生日おめでとう、のメールにそのことが書いてあった。 感心しました、と書かれていたのでブログまでは隅々まで読んでいないのだとは思う。 けいこはおそらくそれ以上の探りを入れたりはしないとは思うけれど、叔父は今現在もこれを見ているのかもしれない。 家族、親戚にはバレないつもりで書いていたのだけれど、それでも一応、いつ誰が読むか分からないのがインターネットの世界だ。 わらわらと文章を書いているが、明日からのフィリピン旅行、久しぶりに旅日記でもつけたいところである。 10年ほど前、モロッコに行ったときに私は旅日記を現地からブログで更新していた。 ネットカフェを見つけては、何時間も居座って私は日記を書いていた。 できればもっともっと書いていたかったけれど、連れがいたので私としては早々に切り上げたりもしていた。 あの時にあの時間も、今のこの時間も、私にとってレベルの高い喜びのひとつであることはあまり変わっていない。 今思い返しても、あの時間は私は幸せだったと思う。 誰かに見てほしい、ということはもちろんなくはないけれど、それ以前にとにかく何か文章を紡ぎたいのである。 「夢中になって周りが見えなくなる」とか「夢中になり過ぎて知らない間にものすごい時間が経っていた」などということが私はおそらくあまりないのだけれど、文章を書いているときはそうなりやすい。 今のように久しぶりに書いたりすると、文章を吟味することもなく気持ちと手が急いてしまって、訳もなくドキドキしてしまうほどだ。 ネット環境と、ブログを書く暇が許せば、スマートフォンからでも旅日記を書こうかと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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