初めて「いきなりステーキ」に行った。
私はあまり牛肉が得意ではないので普段焼肉ステーキなどと言っても全然喜べないのだが、二日酔いの午後3時、何か重量のあるものを食べたいと思い立って、店の近くにいたので満を持して入ってみることにした。 ちなみに私が牛肉が得意ではないと思っているのは、味が苦手なわけではなくて、消化が良くできないというところにある。 牛肉を食べてパワーアップ!というようなキャッチコピーがまさに「いきなりステーキ」にあるわけだが、私は牛肉を食べると消化に体力を奪われて逆に疲れてしまう感じがするのである。 牛の締まった肉質と野性味に、私が叶わない感じがするのである。 では食べなければ良いのだけれど、年に一度くらい、ステーキ感を味わいたい気分だったのである。 それに、二日酔いの日は、炭水化物とたんぱく質、脂質のしっかりとしたものが食べたくなることはよくあることである。 店内は一見きれいなのだが、中華料理屋によくあるような油気で全面が覆われていて、ぬるっとつるっとじっとりとした感じがある。 今日が猛暑であるのと同様に先日のこの日も猛暑で、店内のエアコンからは白い水蒸気が見えたような気がした。 優しそうなハンバーグもあったけれど、また、ステーキ肉とハンバーグのハーフ&ハーフというのもあったけれど、せっかくだからステーキにすることにした。 今日は年に一度の牛肉デーなのだから。 自分が肉をどのくらい食べられるのかがいまいち分からないので、一番少ない200グラム、ごはんは大中小あると言われて中にした。 店の壁面のポスターに後で気付いたけれど、デフォルトの付け合わせはコーンで、玉ねぎ・もやし・じゃがいもに無料に変更できるということだった。 玉ねぎにすれば良かった。 隣りの40代後半くらいの女性はすでに後半戦に差し掛かっていた。 フライドチキンのような骨付き肉を食べている人を見ると、「肉を喰らう」という姿にやや感動を覚えるのだが、ステーキ肉もそれに匹敵するものがある。 私たちは、肉を食べているときに動物の肉を食べていることを半ば忘れているのだと思う。 命をいただいているというある種の恐ろしさを紛らわすためにされるひとつのことが「名付け」ということであると言ったのは金田一秀穂さんだ。 「死んだ魚の生の肉」と言わずに「刺身」とすることは、命を食べているということや何かの死の上に自分の命が成り立っているという事実を一旦遠ざけて、美味しいものを味わう、ということに重きを置いている。 「はつ」を美味しそうに食べる私たちは、生きて動いていたものの「心臓」を噛み拉いていると同じことである。 自分が認識する外界のあらゆる物質を、私たちは「分別」した上で「名付け」をしている。 名付けとはこの世の中を合理的に生きていくために、我々がそれを認識したり覚えたりする以前から用意されている。 しかしおそらくこの世界にはまだ分別されていないもの、あるいはそれが多くの人に認識されていないもの、そして名付けれられていないものだってたくさんあるだろうと思う。 と、そんなことを考えながら、それでも私は運ばれてきた「ステーキ」という名の牛のどこかの肉をもりもりと愉しんだ。 久しぶりの塊肉は牛肉にしか出せない旨味をぎゅうぎゅうに湛えながら、私の胃に落ちていった。 紙エプロンには鉄板からぴちぴちと油がはねた。 案の定、身体は重くなったけれど、牛肉デーの私の心は満たされたのであった。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|