妊娠8か月、あと3か月もある。
正産期まであと10週間ほど。 都合よく、胎内の成長が済んで10週間後に産まれてくれることを願っている。 出産や悪阻が辛いというのはよく聞く話だが、妊娠中後期が辛いというのはあまり誰も教えてくれなかった。 何が辛いって、総じて、身動きが取りづらい、ということに尽きる。 日々のかえるくんの拡張作業に、これまでの私の身体がついていっていない。 悪阻も陣痛も、症状や感じ方は人それぞれ個人差がかなりあるだろう。 私の痛みや私の辛さは、私だけのものでそれは残念ながら他人と共有のしようがない。 それと同様に私は人の痛みを正しく感じることはできない。 痛いとか辛いとか、あるいは、嬉しいとか楽しい、でさえも他人尺度で正しく感ずることなど不可能なのである。 それを正しく知ることは、他人に優しくなれるひとつの方法であると思う。 マーシーの「コインランドリー」という曲の中の「想像力それは愛だ歴史の果てまで」という一節を思い出す。 「漂白剤ぶちまけるぜ世界の果てまで」と続く。 子どもへの成長の希望として「人の痛みの分かる人間に育ってほしい」なんて言うことがよくあると思うが、それを口にする親は他人の痛みを分かっているのだろうか。 これは私のただの屁理屈なのだと思うけれど、願えるとしたら、「人の痛みを精一杯想像することを止めない人間になってほしい、そしてそれを踏まえどのように行動するかを自分自身で決断する人間であってほしい」と、そういうことだろう。 それにしても胎児という存在は不思議である。 産まれてしまえば私たちと同じ人間であり、生きていく能力が著しく低い人間とも言える。 最初のうちは、ひとりで移動することもできなければ姿勢だって変えられないし、食料を獲ることもできなければ固形物すら消化もできず、排泄でさえ処理することができない。 しかし胎児は母体との完全なルートを確保することによって、これらのこと全てがひとりでできるのである。 その上、産まれてからの人間は水の中で呼吸することはできないが、胎児は呼吸さえもできているわけである。 ちなみに羊水はほとんど胎児の尿であり胎児は尿を飲んだり排泄したりしているらしいが、老廃物は臍帯から排出されるようになっており、その羊水は無菌なのだそうだ。 胎児が選び取って練習してそれをやっているわけではなく生物プログラムがそうなっているのだけだが、何だか胎児の能力に畏敬の念すら抱いてしまう。 酸素も栄養も、胎外にいる私たちとは全く異なる能力で得ているのである。 無論その生命維持は母体ひとつにかかっているわけで、栄養も選べなければ睡眠だって思うようには取れていないかもしれない。 狭い暗いという概念はないにしても、何かしらの窮屈感はあるのかもしれない。 しかも、母体が死んでしまえばほとんどの場合胎児も死んでしまう。 でもきっと、温度変化が少なくて温かくて、ふわふわと浮いて力が要らず、肩こりなんて言葉さえ無い心地の良い場所なのではないかなと想像する。 母体の私の身体は大変なのだけれど、かえるくんのいる場所は居心地の良い場所であってほしい。 ずっとそこには居られないのだし。 春、4月。 1年前、おじいちゃんとおばあちゃんが立て続けに死んだ。 その1周忌法要が週末にある。 ついでに私の出産の影響で早められた父の13回忌も同時に催される。 3人同時の法事。 帰省は新幹線だから良いのだが、1日のトータル歩数が10000万歩を越えないように動いた方が良さそうだ。 体力維持のためにも動けるだけ動いた方が良いだろうし、動きたいのだが、如何せん無理がきかない。 ところで陣痛中に字は書けるのだろうか。 少しでも気晴らしや息抜きや転じて笑いになると良いので、筆ペンと紙くらいは持ち込もうと思っている。 毎日続けている書の提出物を、途切れさせないなんてことが果たして可能だろうか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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