結婚に際しての親族顔合わせの席での小道具として親族名簿を小さな巻物にして作っていった。
夫妻となるもの、その両親、きょうだい、その子どもたちの名前と生年月日を淡々と書き記していった巻物である。 私は単純に人の名前を書くのが好きだし、改めて親族をずらりと字面で見ることも少ないので、出来上がり図はそれなりに壮観だった。 あまり「家族」というもののコミュニティを深々と掘り下げたくない私であるが、切っても切れないこの社会の最小コミュニティは家族というものである。 私にとって「家族」は「カゾク」と書きたくなる感じがあって、それは未だに「東京」と「トウキョウ」と書きたくなる感じといささか似ている。 私には、どこか社会通念的な家族概念から一線を引いた立場でありたいと思っている節がある。 「家族団欒」「家族旅行」「家族愛」「家族思い」「家族が一番大事」「家族のために頑張る」「家族になろうよ」、そんなことは大々的にはしたくない。 そんなにチーム感出さなくて良い。 チーム感を出せば、自ずと内外の排他感まで生まれ得るではないか。 また「カゾク」からは一線引きたい一方で、現状の住処としている「トウキョウ」には「東京」の方から一線引かれているような感じがある。 「トウキョウ」は生まれ育った故郷とは全く異なる場所や機能として存在し、どんなに長く「トウキョウ」を愛したって「東京」は私のアイデンティティとして一体化することはないのだろう。 それは少し寂しいようで寂しくなんかないのである。 それに、私は「東京」に「新しい家族」を探しに来たわけでは毛頭ない。 「トウキョウ」は私が一方的に大好きであるだけだ。 私にとって「トウキョウ」は社会通念的な「家族」感に乏しいからというのも理由のひとつかもしれない。 「家族」の一員としての私、ではなくて、この地球に生きるあるひとりの私、である方に価値を置いているということなのだろう。 このことはおそらく私の孤独の素のようなものであるし、「東京」を「トウキョウ」と呼んでいるのは紛れもない、この私自身である。 いくら「東京」を擬人化しようとも。 すべては便宜上の「東京」と「トウキョウ」であるし、「家族」と「カゾク」である。 十数年間住民票のある「東京」に暮らし続け、法律上の「家族」を新しく作った、言えるのは制度上のこのことだけである。 「東京」や「家族」という言葉に私が少しの言いよどみを持っていることを自覚しながら、私はきっとかえるくんを育てていくのだろうと思う。 どこにいたってどうであったって、お前はひとりのただのお前だ、と教えるのだろう。 途中の話に熱が入ってしまったが、私の書いた親族名簿の巻物を見た友人がいたく気に入ってくれて、親族名簿を発注してくれた。 その友人も間もなく結婚する。 巻物は私の仕立て力では売り物にならないのでお断りして、A4のきれいな和紙にずらりと両家の面々を並べ書いてゆく。 身重の今、作品系のものは机上で書けるもののみ受けている。 4枚手書きで、ということで数日の夜をかけてやっとのことで4枚目が完成したと思ったら、お父さんとお兄さんの名前が一緒になっているではないか。 何と言うこと・・・。 夜な夜な書き直す。 そして夜な夜な簡単な製本を施す。 これがまた、私は表具についてはさっぱりなこともあり、それっぽく見せるのには難儀なことである。 本日納品。 ともあれ、命名書もそうだが、これは新たな商品になりうるのではないだろうかという個人的手応えがあった。 名前好き、そして結局家族というものに興味が大有りの私としては書いていて非常に面白い。 売り物というのは、作者側が何かしら面白いと心底思っていないとダメである。 しかしながら、今回仕立てたものを見せたいのだが、個人情報が満載なのでダミーの親族名簿を作らねばなるまい。 そのダミー一族を考えるのもまた楽しといったところだろうか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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