いつしか行事ごとにさっぱり興味が失せたどころか、極めて自然に思い出しもしなくなっている私だが、子どもが産まれてからというものの、なんとなく行事ごとの前になると少しの罪悪感や圧迫感を感じるようになった。
クリスマスも、誕生日も、結婚記念日も、お正月も、節分も、子どもの日も。 みんなの行事から個人の行事まで、気が付くと過ぎ去っているのである。 もちろん、世の中は節分が124年ぶりに2月2日であると話題にしているし、鬼のお面をかぶって豆まきをする日であることは知っている。 最近では恵方巻なんてものを食べるらしいではないか。 だから当日の直前までは、あー何かそれらしいことをしようかしらという心意気がかすめるのだが、いざ買い物に行くときにはすっかりと抜け落ちてしまい、微塵も思い出さずに、たいてい翌日くらいに少しの罪悪感をもって思い出すことになる。 罪悪感は、息子にそのような行事の意味や楽しさを味わわせることが私のせいでできない、ということから来ている。 いくら保育園で行事を楽しませてくれるとしても、無論息子は私の影響を多大に受けざるを得ない存在であり、家庭内でのそれは息子の中の思い出としては大きなものになるのではないかと思う。 一方で、以前にも書いたが、私が行事などに囚われなくなってことを私自身のみにおいては良いことであると思っている節がある。 ここがややこしい。 そもそも年中行事とはそのほとんどが、古来から疫病や災害から守る、健康や豊作を願うお祈りだろう。 いつの時代も疫病や災害は困りものであるし、健康や豊作を願いたいといころなので、現代においても行事は残っている。 ひと月、あるいはふた月に一度ほどそのような行事があるのは、季節ごとに起こる災害や採れる作物は変わるので、定期的に生活を見直し背筋を正すという意味合いがあるのだろう。 また行事は人が集まって行うことも多いと思うので、地域の交流にもなる。 誕生日や記念日をお祝いするのは、自身の存在を周囲に承認してもらうこと、家族という最小単位のコミュニティを円満持続させるための効能、といったところだろうか。 これらの効能を私は否定しているわけではない。 ただ、普段から日々を大切にしていればあえてかしこまった行事なんてしなくても良い、その時々に行事よりも大切なことがあるかもしれない、決められた日を強制的に特別に思うのは変だ、もっと自分の身を任せてみたときの流れを掴みたい、というようなことを思っていたのも確かである。 そして私はあらゆる外的な呪縛から、一旦は解放されたか緩んだか、たぶんしたのだと思う。 そして子どもを持ち、再度子どもを持つ親目線で改めて考えてみると、やはり行事は大切にした方が良いのではないかとも思えてくる。 どれもこれも、楽しみに準備をする、楽しみに待つ、実際に楽しい嬉しい美味しい、そんな気持ちがたくさんあると良い。 それに、あんなことやこんなことが昔から世の中にはあるのよ、と知った上で、息子が大きくなって自立したときにそれが必要であるかどうかを考えればよい。 そのためにはある程度、身体でもってそれを知る必要がある。 次は一般的には端午の節句だろうか。 そういえば去年はいただいた柏餅があって、まだ食べられない息子はそれを床に投げていたような記憶がある。 鬼はうちには来なかったし、だから豆も撒いていないけれど、こいのぼりは何かしらの形にしてみても良いのかもしれない。 全くの別の話だが、森田子龍の展示会が銀座のギャラリーであって観に行ってきたのだが、何だか少し嫉妬してしまった。 結構たくさんの作品が一度に見られる稀有な展示会だと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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