あと一週間も経たないうちに新元号が発表される。
私はあらゆる行事ごとに惑わされることを厭う傾向にあるのだが、元号発表には大きな期待を寄せている。 平成が始まった年、私はまだ3歳であった。 無論、小渕さんがあの「平成」という文字を掲げた瞬間を覚えてはいない。 幾人かから当時の状況を聞いたが、あの時は今回と違って天皇生前退位ではなくまず天皇が崩御されたということだから、喪に服すことと新時代到来の明暗が奇妙な感じであったという人が多かった。 西暦で統一して和暦など無くせば良い、というのもごもっともだと思うけれど、書家の面々にとっては作品の最後に書く落款に和暦で日付を入れることも多く比較的なじみ深いものなので無くなるのはどこか空しさを感じてしまうだろう。 西暦2019年と書くのが嫌なわけではないが、漢数字的には、二千十九年となり、なんだか締まりが悪い。 それに、昭和生まれ、平成生まれ、昭和感、平成感、というように一時代を括るというのは大きくて曖昧な社会的変化を語るのに一つ有効な手立てであると思う。 個人が個人としてただ存在することには別に和暦も西暦も国も人種も関係ないが、私たちは時代風潮に全く影響を受けずに暮らしていくことはほとんど不可能と言っても良いし、社会的動向や時代を読み解くのは個人がより良く生きていくことにおいて時に肝要であると言えるだろう。 元号括りは、西暦の1980年代、2000年代などの10年刻みの言い方よりももっと大きくて情緒的な共有物が含まれる感じがするのは私だけだろうか。 音楽でいうとことの“グルーブ”的な感じを元号は持っている気がするのである。 もっとも、明治以降というか、特に昭和、平成について言っているに過ぎないが。 ところで私は「安久(あんきゅう)」という元号になるのではないかと勝手な予想している。 ある方のお父さんが「安久(やすひさ)」さんという名前で、それを見たとき元号みたいだと思ったところから。 現状この安久説は最も有力といった感じでインターネット上を騒がせているが、私はもっと前からこう言ってきた。 実に些末なことだが、信じてもらえるだろうか。 友人が「本日」と書いて「ぽんにち」と読ませたらきっと自殺率も下がるくらいの明るい時代になるだろうと酒を飲みながら言っていたことが思い出される。 この友人の最新の予想は「万安(ばんあん)」とのことだ。 イニシャル「A」もインパクトがあるが、「B」とはなかなかである。 かえるくんはとても早産にならない限り新元号元年生まれとなる。 このことを私は、妊娠が分かったその時から何だか妙にめでたく感じているのである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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