年末から長らく休みだった近所のパン屋さんが新年初めてようやく店を開けた。
なかなか徒歩20分ほどの離れたパン屋に行くことが出来ず、ここ最近はもうパン難民であった。 仕方がないので、と言うのも申し訳ないが、超熟でお茶を濁していた。 ようやく買えた5枚切りの食パン。 売り場は6畳もないほどのスペースの狭いパン屋には、常に4,5人がぶつからないように、またパンを落とさないように注意深く物色をしている。 長らく休みだったことを一切感じさせない品ぞろえと売れ具合。 「待ってました。今年もよろしくお願いいたします。」と客は口々に言っていた。 パン屋というのは”しあわせ”という言葉の結構近くに位置するのではないだろうか。 パンが、というよりは、パン屋が。 伊集院光が昔ラジオで言っていたが、「パン屋のパンが焼ける匂いが嫌いという奴は聞いたことがない」。 ふんわりと暖かくて香ばしくて、パンの小麦色の反射からかどこかオレンジ色の光に包まれて、”しあわせ”の欠片を積み上げたような盛りだくさんのパンの陳列。 奥の厨房でパンを焼いている太っちょで無口な店主が、ちらりちらりと客の様子をうかがっている。 私は彼が笑ったところをまだ見たことがない。 やや妄想が過ぎたが、そんな”しあわせ”の場所に10日以上も出向けないとなると、パン難民にもなるというものである。 私だけではないだろう、近所の多くの人がパン難民と化していただろう。 なんと愛されているパン屋だろうか。 さて、年末年始の慌ただしさからだんだんと日常が取り戻されてきている。 それでも夫が死後の手続き等で実家に帰っていたりなど、通常運転とは程遠い。 句会も、出ようと思えば出られたのだが、気分が乗らなくてさぼってしまった。 ここ3,4か月くらい続けてきたお献立も途切れたままである。 毎日の書は数日お休みをしてまた復活した。 ちょっとリズムが狂ってしまっている。 地に足がつかない心地である。 月刊の息子の写真集は途切れず発刊している。 これに加えて四半期に一度、保育園の写真の販売がある。 息子が写っているほとんどすべての写真を買ったら合計で2万円を超えてしまった。 我ながら馬鹿だなあと思うわけだが、この息子の表情とこの息子の表情はどちらも捨てられない、となってしまうのである。 200枚余りの写真をすべてスキャンしてこちらもフォトブックにする。 母と義母に送る。 そういえば、私は父を全員失ったし、息子は祖父を全員失った。 息子は先日亡くなった義父のことをおそらく覚えていないだろうから、おじいちゃんという存在とはほぼ関わりのない人生になる。 自明のことだが、あぁそうなのか、と変に納得する。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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