ふたりの姪に会いに行く。
下の姪は人見知りが激しく、お母さん以外を全然受け付けなかった2か月ほど前。 おばさんは力及ばず、というか私が早々に諦めてあまり構いもしなかった。 それでも私は、いもうとが送ってきた下の姪のいないいないばあの動画が愛くるしすぎて100回くらいはこの間に眺めている。 よく聞く話だけれど、幼子の人見知りというのは時期によって変わっていくものらしい。 数か月前は多くを拒絶をした子も次第に、お母さんやいつもいる家族以外の人間も、自分を可愛がってくれるということが分かってくるのだろう。 そうしてまた、色々な経験を積んで、もっと人を好きになったり、こういう人、往々にして見知らぬ男性はだめなどという風にまた変わっていくのだろう。 そうしてまた、変わっていくのだろう。 今回は下の姪は、前ほどの人見知りをせず、おばさんとも遊んでくれた。 上の姪と同じく食いしん坊になった下の姪は、私の手からふかしたさつまいもを食べてくれる。 餌付け、とは言葉が悪いけれど、子どもはメリットのある大人が好きなのだ。 いやこれは広い意味で、大きくなっても全然と言っていいほど変わらない精神性のひとつであろう。 つかまり立ちでぐらんぐらんしていた体幹も、ずっしりと地面を踏んばり、てこてこと歩き、いろんなものを持ってきてくれたりする。 「だっこ」の一言だけをいっちょまえに覚えて、前回は私に抱っこされると顔を「X」にして泣いたくせに、「だっこ、だっこ」とせがんできた。 まあそれは私に抱っこされたいというよりは、自分が届かないところのものが見たかったり移動したかったりするからだけれども。 窓ガラスには美味しそうなグミのようなクリスマスの飾り、ジェルステッカーと言うらしい、を剥がしてまたくっつけるという遊びをすると、小さな手でグミを引っ張って、おぼつかない様子で窓に貼り戻した。 「いえーい、できた」と私が言うと、ぱちぱちと嬉しそうに小さな手を叩いた。 「もう一回、ぺた、して」と言うと、またグミを引っ張って適当な位置に貼り戻して、「いえーい」と拍手する。 ものすごい可愛さで。 しかし長く抱っこをしているのは重たいので降ろそうとすると、しがみついて降ろすなとアピールをしてくる。 足をからめつけ、服を握って、「んーーー」と言う。 重たいのもそうだけれど、しがみつかれることが嬉しくて、私は何度も意地悪に降ろそうとした。 子どもが自分の手を引いてくること、抱きついてくること、それはとっても嬉しくて、やや勘違いを起こしそうになる。 「Xmas」の「m」を反対にくっつけて「くりすわす」になったり、「a」を床に落として「くりすむす」になったり、仕舞いには「Xmas」は散り散りになって、挙げ句「m」を引っ張って千切られた。 上の姪が寄ってきて、きれいに直してくれる。 上の姪は相変わらず私をソファ代わりに使ってテレビを見ていた。 私がいもうとに書いた「Tout va Bian」という書を、「やむい13」と読んで、「おばさんどうして変なふうに書くの?」と聞く。 うむ、そうだよね、変である。 「うん、なんでだろう。おばさんの気分」と答えると、「変なの」と笑う。 浜名湖のおみやげのうなぎいもチップスを、ごはんとデザートの後に「一個だけ食べる」と言って、本当に一枚だけ、机の下でこっそり食べていた。 一個だけなのはお母さんとの約束、机の下で食べるのは、同じく食いしん坊の下の姪に見つからないようにするため。 ぷりきゅあか何かのぬりえを私にくれた。 私は要らないものを家に置くのが嫌なので、どんどんと物を捨ててしまう傾向にあるのだが、一日経った今日、やはり捨てられなかった。 今度いつか引っ越しするときに、もう一度考えよう。 子どもはいちいち大変で、いちいち面白い。 だから幼子を持つ友人のブログがいつの間にか子育てブログと化しているのもうなずける。 しかしそれと引き換えに、自分について多分にないがしろにしていることがおそらく結構大きな悩みでもあるのではと想像する。 子どもはかわいい、ただそれだけは独立してあるにせよ。 子どもがいなければ暇だ、というタイプであればその悩みは起こらないのかもしれない。 別にこれは良し悪しの話ではない。 いもうと宅からの帰り道、やっぱり私は家族と会うと妙に疲れてしまうようで、電車の中はほとんど眠っていた。 少し酸欠なのも感じて、誰に向けてなのかこれ見よがしに深呼吸を繰り返す。 翌日の今日、冷蔵庫を覗くと、豚肉を買ったことを忘れていたことに気付く。 少し茶色に変色していて、匂いを嗅ぐとうげっという臭いがして仰け反る。 仕方がないからそれを捨てて、あの干物屋の干しエビと小松菜と卵を炒めて焼うどんを作って食べる。 ひとりでごはんを食べることについては、本当に少しも強がらずに、全くもって平気というか楽しい。 特別に美味しくなくても、まあいい。 誰かと食べることが嫌なわけではなくて。 一緒に食べる場合には、その場の空間も、料理も、会話も全部をひっくるめての楽しさだ。 もちろんそれは楽しいことのひとつである。 しかし毎日毎食誰かと一緒にごはんを食べていたら、ごはんくらいひとりで食べさせてよ、となるだろう。 おそらく私は食事について結構閉鎖的な方なのではと思っている。 私は食についてひとり飽くなき冒険探究することは、この後の人生あるのだろうか、いや。 先日、おでんと赤ワインという奇怪と思える組み合わせが、遠縁の親戚かもしれないということを今知ったこれからよろしく、みたいな出会いをした。 おでんの味醂とワインの甘味が交わるでもなくぼんやり一緒に寄り添っていたり、ゆず胡椒のほんのりとした刺激と赤ワインの酸味がお互いに少しだけジャンプしてそっとハイタッチしたようにして消えていったり。 「神の雫」を読んでから、ワインが好きというか、ワインと食べ物について観察し、頑張って無理やりにでも自分の言葉で表現してみるという試みが面白い。 酔っぱらっているので表現は適当だけれど、何となくこんな感じ、ということを誰かと共有する遊びとしてはとても趣が深い。 良いお年をお迎えください、と今年最後のレッスンの方々に軽く挨拶をする。 私は30日まで仕事が入っている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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