「書道というと、大きい筆持ってアレですか、うおおおって書くんですか?」とよく聞かれる。
私は大字書は特にはやらないので「大きな紙には書いたりもしますが、普通のサイズの筆を持ってちまちま書きますよ」と答える。 先日、キックボクシングをやっているという方に私は、「やっぱ殴られても痛くないんですか?」という質問をした。 月並みで無粋で、つくづく浅はかな質問だとは知っていながら。 アドレナリンが出ているから痛みはそのときには感じない、その答えめいたことも、何となく前から知っていた。 それが本当か否かは知らなかったけれども。 書でも、キックボクシングでも、全然知らない世界に対しての質問の定型文が、広く一般に共有されていることがある。 その世界のほんの片鱗がメディアを通して伝わって、それが全てであるような見え方をされていることがある。 それだけその世界が閉ざされているのか、波及力がないのかは分からない。 これらの質問は、確かに気になることではあるものの、この答えは何となく皆耳にしたことがあったり、想像できるのではないだろうか。 それでも似たような質問をしてしまうのは、そのよく分からないもの、知らないものが、自分の想像している通りだと無意識に願ってしまう心なのか、単なる会話処世術なのか。 私は後者だったわけであるが、そのような自分の社会性について時折嫌気がさすことがある。 もちろんそこから話が展開していけば良いのだろうけれど。 想像をする、それが他人とコミュニケートするにおいてできることの全てだ。 知ってほしいし、知りたい、その姿勢こそがコミュニケーションを成り立たせるものだろう。 とある場所で、あるキックボクシング協会のチャンプだという方と話をする機会があって、ほんの少しだけれど会話をした。 私が書をやっていると言うと、彼は「なぜ書道なのですか?」と聞いた。 私はハッとしたのもつかの間、その答えを頭の中に探して、「ずっと昔から好きだったことを大人になってから思い出したからです。」と答えた。 一方で私がしてしまった無粋な質問について後悔し、数日ほどやや気を揉んでいた。 そして、先日、チャンプの出場している試合を観戦しに行った。 格闘技全般、私は人が殴り合うシーンが映像であっても好きではないと思ってきたので毛嫌いしていて観たことがなかった。 一般的に言って、男性が心を燃やすもの、という暴力的な線引きの下、私の中で開けない箱にしまって隅に追いやってあった。 「フリースタイルダンジョン」のおかげでヒップホップに興味が持てたこともあり、観戦する前から、おそらく私は格闘技は自分が実は好きになれるかもしれないという予感はあった。 人を殴ることや人をけなすこと、それらそのものが好きというよりは、何か生きるのにほとんど無駄なことに一生懸命精魂燃やして行う勝負事は愛おしい気持ちで見入ってしまう。 もちろんその中にはダメなものもたくさんあるけれども、とても美しい試合を目の当たりにすることもある。 私はチャンプの試合を見て、感動した。 見事勝利して、その座を防衛された。 たぶん、格闘技を生で初めて見たという私の中でのスペシャル感が盛られていたとも思うけれど、何試合か観戦した後のラストマッチだったので、場の空気にも目も少しは慣れていたと思う。 しかしながら、どんなパンチが良くて、どんなキックが効くのか、私には全然分からない。 でも、野生の感で戦っているのではなく、文字通り血の滲む努力によって会得したのであろうその冷静沈着な戦い方に目が離せなかった。 体力のみならず、知力と精神力を加えた総合力なのだろうと思う。 私はまったく初めて見たのにもかかわらず、この人は前よりも強くなっているのだろうという気がした。 周りの観戦の大声を聞きながら、私は手をグーにして固まって観ていた。 ロックのライブも、身に危険が及ばないのならば、感動していたら私は動けない。 チャンプ曰く、「キックボクシングの試合は、選手2人が作るリング場の芸術です」ということらしい。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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