2日目、この度唯一のアクティビティ、ホエールウォッチングに出かける。
クジラがそんなに好きかと言われればそんなことは無いが、クジラが見たいかと言われれば是非見てみたい。 私はどこへ行っても建造物を見るよりも山や海の緑や青を見るほうが好きだ。 生憎天気は曇り。 夕方から嵐になるとの予報から、予約時間を14時から11時半に早めて出発。 何組かの客と共に乗船するのかと思いきや、客は私たち二人だけ。 ホテルの後ろから桟橋が出ていると聞いていたが、桟橋というよりはただの板が船に向かって架けられているだけだった。 そして船というよりはボートである。 案内してくれたホテルの方はひょいひょいとその板を渡ったが、私は少々足がすくんだ。 よりによってマキシスカートなんて履いているものだからその裾を捲し上げると、片手がふさがって余計怖くなった。 今さら、「妊婦なんですが大丈夫ですか」などと言っても無意味だろう。 曇っいたが海はエメラルドグリーンで透き通っていた。 奄美大島は同じ鹿児島県の屋久島よりも随分南に位置していて、沖縄本島に近い。 かつて沖縄で見た海の色と同じ感じである。 船頭の若い兄ちゃんはこんがりと日焼けしていて、キャップから覗く短髪は雑に金色だった。 よく喋るとも喋らないとも言えない、言葉数の兄ちゃんは、根はいい奴何だろうなと勝手に想像していた。 ボートの中央に四角い箱のような場所があってそこに座るらしい。 ちゃぷちゃぷと浅瀬を進み、亀が泳ぐのを見たりなんかして。 ここまでは良かった。 あんな航海になろうとは。 亀がいるのは浅瀬だが、クジラがいるのは沖合とのことで、ボートはどんどんと沖へ向かっていった。 岸は遠ざかり、海の色は深い青色となり、海底を知らせない。 一面海の絨毯となると、たっぷたぷの母なる海に囲まれて私はまた自然の力に怖くなった。 沖へ向かうにつれて波立ちは荒くなり、ボートはしぶきを上げて上下した。 服に水がかかるなんて聞いていない。 けれどそんなことを言っている場合ではない。 兄ちゃんは実に冷静に普段通りそうに舵取りをしている。 たぶん、私には普通でないだけで普通のことなのだろう。 ガコガコと揺れ跳ねるボートの箱椅子にしがみつきながらバタバタとはためくロングスカートを膝で挟んで固まっていた。 2時間と聞いていたから、まだまだ序盤だから私は早くこの状況に慣れようと波の動きとボートの動きの傾向を読み取ることにした。 波は当然ながらとめどなくやって来て、うねりがぶつかって砕けたり、合わさって大きくなったりする。 ボートのエンジンを止めているときはその波に身を任せ揺れていれば良い。 しかしエンジンをかけるとその波に逆らう動きをすることになるので、衝撃が発生して揺れ跳ねる。 このくらいの波ならこのくらいの揺れ、と次第に波とボートの動きが把握出来てきた。 幸い船酔いする気配は一切感じられなかったが、身体が強ばっているとつい呼吸が浅くなるので幾度も深呼吸をするようにした。 また無理に身体を縮めて固くしているよりは、波と一緒に揺れてしまう方が衝撃が少ないのでなるべくリラックスするように努めた、 しかしあまり気を抜いていると、ふとした波の衝撃で外に放り出されそうな気がするので程々に。 「大丈夫ですか?あそこの岬を抜けると波は楽になりますから」と兄ちゃんは説明したが、随分先の岬を指していて私は内心あんなところのその先まで行くのかとまたドキドキした。 ホエールウォッチングの乗客はこの状態でこれまでに怖いから引き返してくれなどと言われなかったのだろうか、それとも私が怖がりすぎなのだろうか。 何の疑いもなく、私たちは今陸地にいるときよりもはるかに死に近い場所にいる。 浴槽5cmの水深でも溺死の可能性があるというのに、ここは大海原、波立つ底知れぬ海の真ん中である。 もし落ちたら息の仕方を練習しているうちに海水を飲んでむせて溺れてしまうだろう。 鮫がいるかもしれない。 ライフジャケットを来ているから、遥かに見える小さな無人島を泳いで目指すよりは無駄にじたばたせずに揺蕩って浮いていた方が良いだろうか。 マキシスカートは脱いだ方が良いだろうか。 様々なことが浮かんでは消えていった。 前方から向かってくる波を見ていると恐怖感が増すので、衝撃を身体で逃しつつなるべく遠くを見やるようにした。 腹の子も多少心配だったが、まずは自分自身の安全を確保しなければならないし、腹の子はそもそも羊水という海の中にいるわけだから多少のことは大丈夫だろう。 確かに、岬を抜けると波は穏やかになった。 波が穏やかだと障害が少なくスピードが上げられるので、兄ちゃんは25knot、46.3km/時で更に沖合に出ていった。 途中兄ちゃんに同僚からの着信があり、クジラを見かけたというスポットの情報を入手して更に進む。 奄美大島の隣にある加計呂麻島を抜けていく。 遠くに徳之島が霞んで見える。 加計呂麻島は、奄美大島よりも切り立った岩山だ。 「山山山」という文字が並んでいるような、お山の連続。 Googleマップで確認すると道は島の周囲半分弱ほどしか通っておらず、残り半分は船でしか来られないのだそうだ。 いよいよ人の手も及ばないところまで私たち3人は来てしまったというわけだ。 こうも人の気配が感じられなくなると、電信柱や電線や灯台があるだけだも少しの人間の匂いが感じられて安心感が沸くものである。 それにしてもあんな岬の端っこにどうやって灯台など運んだのだろう。 兄ちゃんは加計呂麻島の山の上の方から流れている滝を見て、この夏にあの岩山を登って滝の中腹にある滝つぼのプールに入るのだと今日一番嬉しそうに話してくれた。 「そこから見下ろしたらオーシャンビューの絶景ですよ」と彼は言うが、既に四方八方完膚無きオーシャンビューである。 飽き足らずオーシャンビューの王様に逢いに行くのか。 次第に島の景色も人の手の匂いを全く感じさせなくなってきた。 四方八方水平線という景色になってしまったら私の恐怖は増すだろう。 まあでもこの状況も、プロの兄ちゃんがいるわけだし、私も少し慣れてきたというか覚悟が座ってきたという感じもある。 にしても、13時を回っていて、このツアーの予定時間はあってないものなのだと思い知った。 まさか兄ちゃんはクジラが見られるまでサービスしてくれるのだろうか。 兄ちゃんはとても丁寧に海を見やってクジラを探してくれていた。 16時くらいからは嵐の予報、いつ引き返すのだろう、いつ引き返すのだろう、いつ引き返すのだろう。 自然は危険、天気は移ろいやすい、なんてことは兄ちゃんのほうがよほど肌で知っているだろうから下手な口出しをしたくはない。 何せ兄ちゃんの手に3.5人の命がかかっているのだ。 しかし私はもうクジラなどどうだって良かった。 十分すぎる海の体験が出来ただけでもうとうの昔にお腹いっぱいである。 昨日の宿までの車中とは比べ物にならないほど、後日の体験談を語るに値する。 生きて帰れれば。 急に風がやや強くなってきて海面が荒立ち始めて、当然船も揺れる。 「帰り道で見られたら御の字ですから。そろそろ戻っても大丈夫ですよ」と考えた3案ほどの中から20分程の時間をかけてようやく私は口にした。 兄ちゃんの気分を害するようなことがあっては決してならない。 ボートは大きく方向を変えて戻り始めた。 ここまで何時間をかけてきているのか、また帰路も果てなく遠く思えたが、帰り道に入っただけでも幾分か安心感が沸いた。 がしかし、この日一番のビッグウェーブはここからだった。 風が強くなってきている。 見るからに波は高くなって強くなっている。 ボートは飛び跳ねる。 兄ちゃんはまだ時折クジラを探してくれながら、丁寧に運転をしていた。 波を読んで細かにエンジンをかけたり止めたり、スピードを速めたり遅めたりした。 舵さばきもとても細やかだった。 見比べたことはないけれどこの兄ちゃんはきっと船乗り技術がとても高いのではないかと思う。 波が高いときは力を上げてぶつかると必ず負ける。 だからスピードを落として波を吸収して避ける。 波の上に乗ったらそのまま滑るようにして走る。 けれどまたすぐに次の波が来る。 しかもリズムが一定でもなければ方向も定まらない。 海の、地球の、膨大なエネルギーと強大なうねりを思わざるを得なかった。 当たり前だけれど人間など海からすれば藻屑であり塵であり点に過ぎない。 ここで藻屑と散るのは地球からしたら一粒の砂が零れ落ちたくらいのもので、無かったことにできる程度のものだろうけれど、当の本人の私の身体と脳内は酷い状態を経て藻屑となるのだろう。 波に打ち付けられるボートにしがみつきながら、行きに兄ちゃんが私の悲鳴を聞いて言った「大丈夫です、船は沈みませんから」という発言に再びの信頼を寄せる。 「何かにぶつからなければ」と付け足しで言っていたけれど。 荒波と対応している時点ではスピードが上がらずこんな調子でいつ着くのだろうと不安に思ったが、それでもボートは少しずつ進んで加計呂麻島と奄美大島の瀬戸内に入って波はようやく穏やかになった。 そこからは本日最速スピードでホテル裏の木板の桟橋まで戻ってきた。 そう言えば、クジラは見られなかった。 「ありがとうございました。楽しかったです。」と連れ合いは兄ちゃんに言った。 強がりではなく、刺激的で、もう一度乗りたいくらい楽しかったらしい。 兄ちゃんは、「クジラ見つけられなくてすいません」と言った。 「いいえ、それは全然問題ないです」と私。 何しに来たのか。 あのボートの上でひとり脳内戦争をしていたのは私だけだったのだ。 ちなみにひとり脳内戦争を煽っていたもうひとつの理由は途中トイレに行きたくなってどうしようもなかったからだ。 ボート内にトイレがあると聞いていたが、波の上でどのような形のトイレかもわからないところで用を足すのは怖いのであと少しあと少しと我慢していたら、ボートから降りた時にはものすごく足がガクガクして真っ直ぐ立てないほどだった。 無事に用を足し、塩漬けになった服を全て脱いでこれまた塩漬けの全身を風呂に浸けた。 良かった、温かくて波立たなくて枠のある風呂に入れた。 波に乗れ。 波を読め。 波に体を委ねろ。 逆風でも耐えていればいつか抜ける。 順風を逃すな。 スピードを落として波を砕け。 荒波に下手には逆らうな。 波が穏やかならスピードを上げて走れ。 しかし波は止まない。 多少のしぶきで騒ぐな。 状況を冷静に楽しめ。 耐えうる状況の幅を広げろ、経験を積め。 海的、波的格言のようなことがたくさん浮かんできた。 都会が好き。 だがたぶん、たまにこういう経験をしたくなるのもまた私なのだろう。 今回のは予想を遥かに上回っていたけれど。 夜眠りにつく前、海面がありありと見えて、私の身体はまだ波の上にあった。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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