緊急事態宣言、という物々しい事態であるが、私の日常はさほど影響がない。
もちろん仕事は激減しているけれども、皆さん気を遣ってかどうなのか分からないが、郵便による通信指導やZoomやSkype等でやりましょうと言ってくださる方もいる。 外出の自粛と言っても、1歳にも満たない乳児を連れて行くのは、そもそもが公園とスーパーがほとんどである。 と思っていたが、図書館や児童館に行けない、美術館にも行けない、電車に乗れない、いとこに会いに行けない、など、時折していたことが全て自粛となってしまった今、息子も体力を発散しきれずにいるような様子である。 そのためなのかは分からないが、夜の寝つきが悪くなったことと、真夜中にすっきり目覚めて徘徊するようになったのが本当に困る。 小さな手と身体でもそもそと動いて私の顔を踏みつけ、髪の毛を引っ張り、首を握り、奇声を上げ、つかまり立ちに失敗して倒れて泣く。 勝手に遊んでくれる分には良いのだが、基本的には身体にまとわりついてくるので寝られたものではないが、こちらも身体を起こして一緒に遊ぶほどには眠気が覚めない。 また、普段から標的になっているスマホや眼鏡に目掛けて果敢に移動していくので、それらを都度遠ざけなければいけないのが結構なストレスである。 息子はまだ歩けもしないので、体力を使い果たすというのは脳を疲れさせる、という意味合いが大きい。 大好きな「いないいないばあ」を観たり、つかまり立ちをしたり、初めての食材を食べたり、お気に入りのおもちゃを舐め回したり、近所に散歩に行ったり、私と色々なことで遊んだり、そんなことも日々刺激には変わりはないのだが、いかようにもマンネリ化してくる。 本人はあまり認識はしていなくても、やはり色んな人との触れ合いや物理的長距離の移動や景色の変化は赤子の脳に大きな刺激を与える。 それらが複雑に段々に成長を遂げていくのだろう。 事実、街中に出かけたり、車に乗ったり、いとこに会ったりなどすると、いつもは見せない表情をしたり微妙に様子が変わるのはこれまでも何度も見てきた。 このまま何とかやり過ごすことが出来なくもないだろうが、大きめの刺激があるように工夫した方が良いだろう。 週末に部屋を少し改造してプレイスペースのあり方を変えようか。 しかし、夫もこの非常事態で仕事も大変そうだし、家に帰っても休まらずで何だか可哀想に思える。 夫は可哀想に思われるのは嫌だと言うと思うけれど、このような状態が続くようなら私と息子と別の部屋で寝てもらった方が良いのではないかと思う。 その一方で、とても多くの母親が感じていることだと思うが、ひとりで四六時中赤子を見ていると、夫が帰ってくるなりそれを一挙に押し付けたくなる。 仕事に行くというのは、ひとりになれる、自由になれる、ということとは全然違うと思うが、業務の責任や労働の苦労を一切無視して、母であり妻である女性が「あなたはいいわよね」と言いたくなってしまうのも分かるようになった。 しかし、あれもしたいしこれもしたい寝たい休みたい、という殆どのことは私ができていないのと同様に夫もできていないのである。 またしかし私が夫のように稼げるのかと問われると毛頭自信がないのでそこは言うものではない。 このような所帯染みたことを言うのは嫌だから別の切り口がないかと探っているが、日々の静かなる濁流に飲まれながら、不満を息子の笑顔で食いつぶしながらやっている感じである。 と書いている側で、息子はちょこんと座って涎の玉を溜めながら「いないいないばあ」をきらきらと見ている。 最近の悩みの殆どはこの人が生み出していると言っても過言では無いのだが、あまりの可愛さにこちらはすっかり悩みを有耶無耶にされてしまうのである。 思考はまとまらないので、とにかく発信を増やすこと、オンラインでもなんでも夫と息子以外の人とのコミュニケーションを増やすこと、これはしてみたいと思う。 5月に予定されていた展示会も掛け軸が出来上がって準備も万端となったところで延期となった。 しかしながら作品は夜細々と書き続けている。 この展示会に出品することを決めて良かったと思う一番のことは、“私らしい書”という形のひとつが見えたことである。 その形というのは、私が今まで思い描いてきた“私らしい書”とは180度異なると言っても良いような意外な形だった。 私は長らく、書において本当に大きな勘違いをしていた。 私はどかんとびしゃっと派手に力強く、しかしぬうっと気色悪い線も入れながら紙面をいっぱいに使って太細緩急をつけて書くことが自分に向いていると思っていた。 もちろんそれもこれまでにしこたま練習をしてきているので、何とか出来るのであるが、しかし、色々試していくうちに作品になりやすい書き方は弱い力で神経質に、偶然を借りながらぼそぼそちまちまとたくさん書くことであることを知った。 このことは今回の展示会のキュレーターである方に指摘されてのことだが、最初はそれを認めるのが無意識に嫌だったようで、「そんなはずはない」とまたどかん系のものも書いていた。 様々な書を見てきて、そういうものに憧れがあるというのもある。 だが、何度やってもどかん系のものは成功する確率が低いというか、成功するまでにかなりの時間を要するのである。 片やちまちま系を書くと、2、3枚目でまあまあのものが書けることが多い。 キュレーターに「どうしてそれを突き詰めないのか。苦手な方向に答えはない。」と言われ、あれこれうんうんと考えて漸く、「これが私らしさ」というものかとやっと認められたのである。 そういえば数年前に東京書作展において東京新聞賞をもらったのも、かなり多字数のちまちま系であった。 人には皆、向き不向き、というのがある。 人生で熱量を使って行うのは、向いていることである方が良い、と思う。 それは何かに影響を受けた私ではない私の性質を理解して、受け入れることと同義である。 自分を理解するのに、書において十数年かかってしまったわけだが、好ましい大発見であった。 しかしこの大発見も日常の静かなる濁流の中にあって、大発見だと分かっていて大発見だと感じるまでに時間がかかっている。 息子がぎゅうっとなるほど可愛いのである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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