30日、今年最後のレッスンを終えて一応仕事納め。
HPから依頼をいただいた命名書を書いて、年賀状も計70枚ほどを書きあげて投函。 一昨年くらいから実に20年ぶりくらいに、作品の一環として書き始めた年賀状だが、やはり骨が折れる。 当然ながら出来栄えに差ができてしまうが、全部を納得のいく形にもっていくまってやっていたらきりがない。 デザインも書きながらふわりと固めていくから、やはり後から書いたものの方が幾分クオリティは上がる。 どれを誰に送ろうか、なんてのは、顔を思い浮かべながら決める。 12月は本当に忙しかった。 私が一人別件で忙しさに追い打ちをかけていたこともある。 いやはやしかし、忙しかった。 ところで年賀状が一枚、既に自宅ポストに届いた。 普通の葉書に普通の切手を貼って「年賀」と書かなかったから届いてしまったのだろう。 内容は年賀状なのだから、郵便局も気を利かせてくれよと思う一方で、私が郵便局員ならきっと配達してしまうだろうなとも思った。 万一、差出人が何かしらの理由があってその葉書が年内に届くものと思っている可能性も全くないわけではないからだ。 それに一年で最もてんやわんやになるこの時期に、全ての普通葉書に対して、「年賀」と書かれていない年賀状らしきものはないか、などとやっていては効率が悪すぎる。 52円とか62円の仕事ではない。 まあだから届くべくして届いたのである。 一笑の価値はあるし、それもそれで良い。 それにしても私たちの日常は、字と言ったらほとんどが印刷物の活字である。 その中にぽんと肉筆が入っていると少し違和感があって驚く。 上手いとか下手とかではなく、肉筆のインパクトというのは、もはや日常に置いての見慣れなさなのかもしれない。 自分のメモくらいならあるだろうが、自分宛に書かれている他人の字を見る機会などほとんどないと言っても良いのかもしれない。 生徒さんの中に保険の営業マンが何人かいるが、彼らは頻繁にお客様に手紙を書いている。 その会社で全国トップ10の売り上げを誇るある一人の生徒さん曰く、「上手すぎないけれど、誠実さが伝わる読みやすい筆ペン字」が良いのだそうだ。 彼は、私の手本を行ごとに切り刻んで自分で書く紙の真隣りに置いて模写するスタイルを取っている。 時々、彼が書いた字に私の欠片が見えて、そんな時は生き血を吸われたような心地がするものである。 書いた手紙を私にも郵送してもらったことがあるが、やっぱり肉筆はその人と対峙しているような気分になるからか、悪い意味ではなく微妙で奇妙な気持ちになる。 読んでくれなさそうなものを手に取らせる、という効果は少なからずあるのだと思う。 楽しみにしていたフリースタイルダンジョンの特番をamebaTVで観ながら、玄関に貼る「謹賀新年」と「迎春」を書きあげて、明日のお題も書きあげた。 明日のお題は、今年を象徴する自分の漢字一字。 「困」という字が浮かんだ。 今年一年、私は色々と困っていた気がする。 何に、って漠然とまとめて言うなら、人生に、だ。 悩みの無い人なんていない、という言い方があるが、それと同じように私ももれなく悩んだり困ったりしたわけだ。 今年は夏もないようなものだったし。 来年はもっときちんと生きていきたいと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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