梅雨が明けた途端、太陽が入れ替わったのではないかと思うほどぎらつきが増した。
ニュースも何も見ていなかったけれど、梅雨が明けたその日、梅雨明けを肌で実感したのは都会のアスファルトの上だった。 昼間の外出は危険、私が子どもだった頃、そんな風には言われなかった気がする。 しかしながら日傘をさして出てみても、ちょっと身の危機を感じざるを得ない暴力的な夏である。 私が好きな初夏の果実ソルダムの季節ももう終わってしまった。 今年は一度しか食べられなかった。 ソルダムの真っ赤で瑞々しい果実を食すと、太陽や植物の恵みへの畏敬の念と感謝が溢れてくる。 これは、別に果物に限らず生命活動全般に対する畏敬の念なのだが、甘くて瑞々しいという人間にとって好ましく、またさらに、それが食べる前の想像を超えるときには、この畏敬の念と感謝が溢れこぼれるような思いがする。 最近ではとうもろこしについて、そう思った。 私に関して言えば、ソルダムやとうもろこし、色合いがビビットなものはさらに畏敬の念と感謝を感じやすいのかもしれない、と思う。 夏は短い。 夏は切ない。 夏が終わると、放物線の頂点を超えてもう下るだけのような気がする。 夏が終わると、もう一年がまもなく暮れるような気がする。 息子は、走り回れるようになった分、去年よりもきっと夏らしい顔が見られるのではないかと思う。 保育園の行き帰りだけで紅潮したほっぺと、嫌々被っている帽子が愛おしい。 先日の発熱からまた言葉が増えてきた彼は、「ぶ、かしゃい」と言ってげらげら笑っている。 「ぶ」はおならの音、「かしゃい」は臭い。 うんこおしっこおならは子どもが皆そろって好きなようだが、それはもう理屈ではなく反射のレベルなのではないかと思う。 おならはつい最近までは「ぶ」とだけ言ってにやついていただけだったが、いつの間にか「くさい」と覚えて、「ぶ、かしゃい」とげらげらをセットでやってくるようになった。 きっと排泄物は触ったり口に入れたりすると危険があるから、口から遠い場所に出口があるのだろうし、それらを特別視して笑うことも、危険物を遠ざける人間の仕組みなのかもしれない。 人間の行動は皆似たり寄ったりで、同じような行動をする。 意思や個性なんていうものがどこに存在するのだろうか。 しかしながら、似たり寄ったり、同じであるということは嬉しさにもつながる。 同じ人間、の違う個体。 数年前にそのことがやっと腹落ちして自覚できたとき、上手く言えないけれど、私はなんだか大きな安心を手にした気持ちになった。 来年の夏には、息子ともう少しまともなお喋りができるようになっているだろう。 そう思うと、今年の夏もきらめきが増す。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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