忙しくなくなったはずなのだが、実際にはあまり変わりはない。
いや、確かに締め切りにカウントされない分忙しくはない、のかもしれない。 しかしながらあれこれと忙しいかのように感じている。 あっと言う間に夜が来て、あっという間に次の日がやってくる。 と思ったら、夜が来る。 妊娠前よりも比較的規則正しい生活をしているからだろうか、より単調な日々の転がるスピードに慄いている。 一方で、出産予定は7月初めだから、腹の子は早く大きくなってその頃を迎えたい気持ちもある。 たぶん、この忙しさを感じるのは私以外の人が家の中と腹の中にいるからなのだと思う。 私はおそらく元来ひとりでいることが相対的に好きなタイプなのだと思う。 まあ皆そうだと思うが、あの人やこの人や、私にかまってくれる人たちが周囲にいてくれた上で、それで丁度良いほどにひとりでいたいのである。 我が儘と言えば、そうだろう。 昔、実家には最大8人で暮らしていた。 おじいちゃんやおばあちゃんは長い間留守にすることもなくほとんど家にいたから、家にひとりでいるということはほとんどなかった。 ごく稀におじいちゃんは山へ、おばあちゃんはお墓参りへ、他の家族も皆外出中、そして家は私だけ、という状況になることがあった。 私は、わーーーーひとりーーーー、随分と高揚していたことを覚えている。 誰の耳も気にせずピアノで同じ曲を何回も弾くというようなことをやっていた気がするが、別にこれと言ってひとりだから何をするわけでもない。 ただ、家に私ひとり、という状況がとても嬉しくて、家の中を走り回りたい気分だった、実際走り回ったかもしれない。 もちろん家族が帰ってくることを前提に。 大学進学時に上京し、ひとり暮らしを始めた。 ホームシックになったことはただの一度もない。 何をするでもないのに、一住戸の中に誰の目もない、私だけの空間は大いに楽しかった。 それから15年ほど、ひとりの住戸で暮らしてきた。 幸いなことに私に何かしらの形で接してくれる人々はいて、だいたい適量のコミュニケーションが取れて、淋しさでどうかしてしまうと思ったことはなかった。 一住戸にわたしだけ、それは私にとってとても快適なことなのだろうと思う。 そして今、婚姻して毎日人と一緒にいる。 たとえ空気のような存在の人でもいるのといないのとでは大違いである。 私以外の誰かの存在が全く気にならないということはあるはずもなく、また単純に体温の塊がそこにあるということでもある。 無論、それは有り難く嬉しいことでもある。 たぶんこの状況にまだ少し慣れていないのだろうと思う。 当然のように人が家に帰ってきて、当然のように一緒にごはんを食べる。 このことは、私が忙しいと感じるひとつの要因だろうと思う。 しかし何度も言うが、ひとりでいたいということは誰かといたくない、ということではない。 自分の思う、適切な量だけひとりでいたくて適切な量だけ誰かといたいのである。 では一日何時間、週に何度、完全なるひとり時間を設けましょう、という問題でもない。 ひとりでいたい気分のときにひとりでいたくて、誰かといたい気分のときに誰かといたいのである。 こうした独りよがりの欲求は、私個人としては満たされたいし満たされて良いと思っている。 相手にもそうあってほしい。 けれどそのタイミングが合わないことだってあるだろう。 別に相手を悲しませたいと思っているわけではなく、できれば喜んでいてほしいのだから、お互いの折り合いの付くところを時間をかけてでも探っていくべきだろう。 そこは相手が我慢しているという状況に追い込まないような高度な交渉が必要である。 なるべく互いの欲求が満たされることが望ましい。 実は私たちは制度上住戸を同じくしていない。 まあ夜はほとんど一緒にいるのだが、住民票の住所は別である。 私は自宅が職場であるので、それを全く家庭の場として同化させるのは嫌だしスペース的にやや無理があるので、もうひとつ住戸を借りている。 腹の子が出てきたとき、この形態が最善であるかはまだよく分からない。 ひとりについて、誰かといることについて、長くて大事なことなので、譲ったり譲らなかったりして一緒に考えていきたい。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|