けいこの誕生日プレゼントを探しに伊勢丹まで足を運ぶ。
普段見慣れていない、あまりそれについて思考を巡らせていない部類の良品を求めたいとき、私は伊勢丹に結構な信頼を置いている。 それが食べ物でも、アクセサリーでも、食器でも、傘でも、アロマオイルでも、タオルでも、盆栽でも。 自分が買うとしても、誰かへのプレゼントとしても。 天下の伊勢丹、高級な品ぞろえの伊勢丹、センスの良い伊勢丹、バイヤーが優秀な伊勢丹、伊勢丹に行けば何とかなる、伊勢丹のものなら間違いはない、そんなふうに少し盲目的にも思っている。 普段見慣れていない、あまりそれについて思考を巡らせていない部類のものを買うとき、選ぶのは苦し楽しいのであるが、コストパフォーマンスというずしりと重たい何かがこの選択決定に付きまとうので、それを少し伊勢丹背負ってもらいたいというのももしかしたらほんの少し深層心理にあるのかもしれない、とこれを書いていて思った。 ちなみに伊勢丹に出向くのは年に1回あるかないか、であるが。 いやしかし、伊勢丹については全幅ほどの信頼を置くとしても、私の難しいのはけいこの欲しいものがてんで分からないということだ。 母の日や誕生日には毎年いもうとと連名でプレゼントをあげているが、花というか植物以外に喜んでいる姿を見たことがない。 日曜消耗品のタオルを肌触りの良いものにすることも、毎日使う箸の質感を上げることも、香り高いコーヒーや紅茶のセットも、瑞々しくて甘い最高級びわも、自分の似顔絵が書いてあるケーキも、だめなのである。 では一辺倒に植物をあげれば良いのだが、けいこの家には枯れない植物たちがたくさんあるので、これ以上世話を増やすのは嬉しさも目減りしてくるだろう。 それに、あげる方も植物ばかりではやはり飽きてしまう。 しかし、以前何かの機会に一緒に行った伊勢丹で「欲しい」と言いながら見ていたロイヤルコペンハーゲンのコーヒーカップはプレゼントしたら戸棚にしまわれてしまうし、もう何だったのか詳細は忘れてしまったが昔あげた傘やら箸やらもどこにあるのだかよく分からない。 けいこがなぜ私たちからもらったものをしまってしまうのか、柄が気に入らないのか、比較的高価な物は使うのが惜しいのか、これまで使っていたものがまだ使えるからなのか、そのあたりもよく分からない。 去年はいもうとと考えに考えて行き当たったプロによる風呂掃除をプレゼントした。 これは本当に久しぶりのヒットプレゼントだった。 他人に家の中を掃除されるのを嫌がるかとも思ったけれども、きれいになった風呂場は喜びに値するものだったようだ。 しかし毎年掃除を派遣するのも何だか嫌味のように思ったりする。 そして今年またいもうとと悩みながら相談して、「私たちが実家に帰ったときに使いたいものにしよう」あるいは「要らないなら自分たちがもらってしまおう」ということで、何を乗せても良い器か陶器のビアグラスにしようというところに落ち着いた。 となれば、やはり伊勢丹である。 やはり信頼の伊勢丹には私の好みを射抜く陶器コーナーがあって、私はしばし自分の買い物欲をくすぐられる思いでそれらを眺めていた。 数か月前にコーヒーカップを買ったときと同じ売り場である。 どこかの作家さんが作った一点物の陶器たち。 直系15センチないくらいの平皿が6000円ほど、ビアグラス8000円ほど、大盛りのパスタ皿のような大きなプレートが15000円ほど。 100円ショップだって機能としては似たようなものが買えるし、容易に割れてしまうかもしれないものなのに恐ろしい値段である。 でもこういうの何だか良いなあと思う。 対やセットで揃えるのではなく、全部単品で、且つ家の全体調和を目指してひとつひとつ揃えていくのはとってもたのしいだろう。 物を選ぶのは、時に面倒で、時に苦しくて、時に楽しくて、時に嬉しい。 それをひっくるめて、たのしい、のだろう。 伊勢丹の閉店時間が来てしまったので、いもうとに写真を送って報告。 まだ買ってはいないのだが、ゴールは見えた。 少し久しぶりにサウナに行ったら、毛細血管に血流が行き渡って皮膚がまだらになる現象「あまみ」を観測した。 やはりサウナはまだ止められない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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