サウナに行きたくてわざわざ調べて電車に乗って出かけて行ったのに、そこの銭湯は今週は男湯がサウナ付きの方で女湯は無いのだと言う。
隣り駅にこの前行った銭湯があることは分かっていたけれど、せっかく来たのにと思ってとりあえず風呂にだけは入ることにする。 風呂に入りたいのではない、サウナに入りたいのだ、と思いながら悪くない風呂に浸かって、こんな温度の身体で水風呂に入りたいのではない、と思いながら水風呂に入ったらそれは案外心地よくて、何だかそれなりにととのってしまった。 それでも銭湯のはしごをしようかとか何度か熱い風呂と水風呂を往復する間に考えを巡らせていた。 風呂から上がるとやっぱり帰りたくなって、住宅街のど真ん中にある銭湯から夜道をふらふらと帰ってきた。 たこ焼きと煮魚をスーパーで買って、昨日の残りの黒霧島を飲むことにした。 久しぶりに、何かとても大きなものを不意に喪失した気がする。 喪失するようなものがまだあったのかと思うのだけれど、喪失した気がする。 何を喪失したかというのは、言葉で言えばおそらく、偶像、ということなのかもしれない。 色んなものとの折り合いを付け、色んなものに合点がいき、さてどうしたもんかと思う日々がここ1,2年続いていたわけだが、ずっとあるひとつのことに囚われているような気はしていた。 それは、偶像など決して崇拝しまい、と思っていたまさにそのことが偶像崇拝だった、ということだろうと思う。 偶像だと認識していなかったものがまさに偶像だったわけである。 ここで言う偶像とは、他人を含む私以外の外界の思想の拠り所、とでも言おうか。 依存しないことに依存している、それそのものが私の偶像崇拝だったのだろう。 このことの仕組みや構造については前々から分かっていたようには思う。 全体的に薄々と嫌気がさしたりしていたことはあるから、偶像であると思わないように自分でコントロールしていた感じだ。 しかしながら私は偶像に小さくない期待を寄せてしまっていたのだろう。 その期待とは、私のことを正しく認識させて且つそれを良いものだと賞賛させることだったと思われる。 永遠に正しく変わらない確固たる私も、またそれを正しく認識され続けることも絶対にあり得ないと知りながら。 ただ時は流れていて、物は風化し、私や他人の身体も脳も進化したり劣化したりなど変化する。 そんな不確定しかない自分や身の回りを含めて、私はまだ何か特定の事柄に期待していたのかと思うと不甲斐なさを感じざるを得ない。 理解する、ことと、腑に落ちる、ことは、全く別のことである。 ここ数年で幾度か私はいくつかの事柄について不意に腑に落ちたことがある。 それを知ったまさにその時は、なぜそんな自明のことにも気づかないのだろうと自分の馬鹿さ加減に嘆き、それまでの素行に対しとても恥ずかしく思ったりした。 結局それはその時点にしか分からないことで会話したり表現したりするしかないものだから、仕方のないことだのだけれど。 その一方で、自分がアップデートしたような気持ちになることはひとつの解放でもあり、胸を撫でおろしたりもする。 あと、この過程において、すべてが偶像崇拝によってできていたものではないことも確かな気がする。 これらのことは、自分自身のことに他ならないのにも関わらず、~な気がする、~だろうと思う、などといった推量でしか話すことができない。 そのくらい自分が曖昧なものであるかは分かっているつもりである。 おそらく、とても優れた文筆家がどんなに適切な言葉を用いて自身のことを説明しようとしても上手く伝えられないだろうと思う。 伝わったかどうかも永遠に検証しようがない。 という取り留めのない考え事をして、煮魚のパックを片づけようと思ったらまだ潤沢に残っていたタレごとひっくり返してしまった。 バブーシュの爪先が茶色く染まる。 元気で大きなブラッサイアの木の下で、喪失についての鈍い衝撃を身体に馴染ませている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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