ぬあああああ、うにゃああああ、んんんん・・・と伸びをする息子は赤ん坊の可愛さに満ち満ちている。
息子のやり方を真似て私も伸びをしてみると、確かに気持ちが良い。 動物は皆、どうにもか弱き赤ちゃんという存在がその存在だけで愛されるように可愛さを携えて産まれてくると聞いたことがある。 私としてはそれは動物に限らず、植物の赤ちゃんも極めて似た性質の可愛さを持っているように思う。 小さくて、でもとても精巧にできていて、柔らかくて、瑞々しい。 動物においていえば、それらに加えて、黒目がちであったり、声が湿っていたり。 また往々にして甘え上手であることも、その可愛さを受け取る側にはポイントが高いだろう。 しかしながら、赤ちゃんのときのこの可愛らしさというのは経年によってほとんど全て失われてしまうものである。 どうして存在だけで愛される貴重な要素を我々は失くしながら大きくなるのだろうか。 あらゆる赤ちゃんは助けてもらわねば生きられないし、大切にされなければ成長できない。 赤ちゃん時代を生き抜く赤ちゃんの生存戦略なのかもしれない。 でもずっとは手厚い援助を受けられないことを分かっていて、生き延びるのに必要な能力を獲得するたびに可愛さをひとつずつ失っていくのかもしれない。 依存から自立への道、そう思うと、切なくも勇敢な話である。 妊娠時から思っていたことだが、どんな人間であれ、胎児時代や赤子時代が間違いなくあったことは当たり前なのだが改めて本当に驚愕に値する。 全員が、程度の差こそあれ、トツキトオカをかけて母のお腹を巨大化させ、誰かが手をかけて目をかけて少しずつ育っていく。 あんなに小さかった子が背高肉厚おじさんになったり、あんなにふにゃふにゃ言っていた子が凛として演説したりするようになるわけである。 そうなってしまえばもう赤子時代に周りにいた大人たちの記憶の中にしかあの可愛さは存在しない。 記憶からも色褪せ、消え失せてしまうかもしれない。 時は巻き戻せないし、あの可愛さは取り戻せない。 長くても3時間間隔毎の授乳をもうひと月以上も続けていることになる。 当然ながら3時間以上のまとまった睡眠はとれておらず、細切れの睡眠負債が睡魔となって出始めている。 深夜、おっぱいを欲しがる「ふえ」という小さな声で起きていたのが、「ぎゃー」と泣かないと気づけなくなっている。 飢餓状態でやや錯乱している息子を抱き起こすと、息子は「助かった」と言わんばかりにもぐもぐもぐもぐ乳を食べていく。 そして私は授乳中に居眠りをしてしまう。 まあでも、ここまでのところは、色々なサポートを享受しながらそれほどに大変な思いはせずに済んでいる。 何度も言うが、やはり妊娠末期の方が身体も心も圧倒的に辛かった。 1ヶ月の検診が終わり、息子は体重はおよそ1kg、身長はおよそ5㎝大きくなった。 この増え率伸び率は極めて平均的なものである。 栄養源は99パーセント私なので、私の母乳の出と息子の飲む量はこの成長に足りていたことになる。 同じ検診を受ける生後1か月の赤ちゃんが何人かいたけれど、なんだか一番ずっしりと貫禄があった。 NICUに入っていたとは思えない成長ぶりである。 病院の体重計の上できれいな放物線を描いたおしっこを飛ばし、待合室でおむつから漏れんばかりのうんちをかまし。 生後1か月を過ぎたので徐々に外出しても良いらしいが、その経路や移動方法や行き先の施設状況を確認することが必要になる。 子育てという新しい営みは、失われた過去への回想と社会制度の確認の連続である。 なんだかんだと、不意に笑わせてもらえることも多くて、嬉しく思っている。 クシンックシンッと2回ワンセットのくしゃみをして息子が今しがた目を覚ました。 私には分からないだろうと思っていた赤ちゃんの泣き声の違いも分かってきた。 抱き上げてほしいと甘えた声で呼んでいる。 たぶん。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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