久しぶりにものすごくヘビーローテーションで聴く曲ができた。
くるりの「THE PIER]のアルバム中の「しゃぼんがぼんぼん」からの「loveless」と、oasisの「Half the World Away」と「I Am the Walrus」。 あるの曲が熱を持つと、自ずとそのアルバムの前後の曲までその熱に染められて好きになったりする。 曲から曲に移るときのその場面転換が何とも言えず、そこの虜になったりもする。 そうなるともう、繰り返し機能をオンにして一日に何度も聴くことになる。 こういうことは今まで50曲くらいはあるだろうか。 やがて私的ブームは過ぎ去るわけだけれど、その後もずっと継続して大好きな曲たちとなる。 これは昔から、私があまり音楽に興味がなかった頃からそうで、そのきっかけは詞であることもあるけれどほとんどがメロディーやテクスチャーの方に引っ掛かっているような気がする。 「loveless」は完全に詞の一部に、ううう、と来てしまったのだけれども。 そういうわけで、結構久しぶりに歌詞を書いてみる。 半切の半分のサイズの紙にこまごま、こまごまと。 たとえ用のない愛 と思っていた詞が 例えようのない愛 であることを知った。 散らばった灰をまとめる時間を と思っていたところは 散らばった愛をまとめる時間を だった。 以前、ブルーハーツの「情熱の薔薇」の 花瓶に水をあげましょう を 他人に水をあげましょう だと思っていて、ヒロトはこの部分だけ変なことを言うなと思っていた。 友人は「青空」の 青い空の真下で を 青い空の真島で と思っていたと言っていたことがあるけれど、いくらマーシーの曲とは言え、あれは果たして本当の話だったのだろうか。 先日友人が「若冲の絵には若冲本人が消えてしまうような凄味がある」というようなことを言っていた。 また、「ゴッホを好きな人は往々にしてその人生ストーリーまでを含めて好きなのだと思う」とも言っていた。 とても、なるほど、と思う。 若冲は、その本人があまりにもそのコンテンツ寄りというか、「俺によるオレ」みたいな感じの表出よりも、とにかく最上のことはいつだって絵そのものを良くすること、ただそれだけに向かっている、感じがする。 いやもちろんゴッホだって絵を良くすることに向かっているのだけれど、そこには情感肉感がたっぷりな風合いがあり、「オレがいます」ということが最上になっている、感じがする。 まあすべて、そんな感じがする、という以外に言うことはないけれども。 とりあえず、誰がどう思ってそれを作ったか、ということの感情移入をすることも楽しいけれど、そのバックグラウンドなどもう全くどうでも良くて、それそのものが良い、という見方もとても美しいなあと思うわけである。 そしておそらく、若冲のような、言ってみれば描き手の存在が消え失せてしまうような作家というのは極めて稀有であろうと思う。 というか、無論原理的に消えてしまうわけではない、というところが何だかもうこの文章の滅裂感が漂ってきてしまったけれど、最近とても思うところなのだ。 いちご大福や若あゆや、せんべいや栗まんじゅうや白い恋人や野菜ジュースや。 いただきものがたくさんある。 いちご大福が最優先だ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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