保育園まで初めて歩いて行った。
大人の足で寄り道しなければ徒歩6,7分の距離。 保育園の先生からは「体力的に歩いてきても良いかもしれませんね」と言われていたけれど、私としては気重感で押しつぶされそうなことである。 もちろん体力的には申し分ないことは分かっている、それは分かっているが。 ちなみに、ええかっこしいの息子は、保育園のお散歩ではお友達や先生と手をつないでゆっくりさしてわき目もふらずに歩くことが出来るらしい。 決して保育園の先生から歩いてくることを推奨されているわけではない。 歩きたがりの息子は最近ベビーカーに乗ることを酷く嫌がるのである。 「安全に保育園にいくためにベビーカーに乗ってね」と予め説明しているのだが、最近の息子にとって外の世界はアドベンチャーワンダーランドなので、優雅なお籠に乗って景色を眺めている場合ではないらしい。 朝乗せようとすると仰け反って怒る、乗せようとすらさせてもらえず。 緊急事態宣言が明けてちらほら出勤するようになった夫はもう出かけてしまっていない。 押さえつけてベビーカーに縛り上げることもできなくはないが、行動を抑制することには言い知れない罪悪感が伴うのであまりしたくない。 かと言って、歩いて行けば腕がちぎれんばかりに息子の行く手を阻まねばならないことも目に見えている。 こんなとき、私は非日常を選びがちである。 いずれにしても、息子のすべての思い通りの行動をさせるわけには毛頭いかないのだ。 どちらを選んでも楽ではない、ならば新しい方を。 週明けの荷物の多い保育園バッグを担ぎ、息子に靴を履かせたら目が輝いた。 それにしても、何か良いことがあったときの、子どもの顔が明るくなることや、目が輝くのはどうしてこんなにもわかりやすいのだろうか。 逆もまた然りだけれど。 「手ってつないで行かないなら抱っこして捕まえるからね、手って離さないでね」と話す。 息子は私と離れることを良しとはしていないので、ある程度は手をつないでくれる。 しかし、興味のままに立ち止まったり、順路でない方向にも行こうとするので、案の定とっ捕まえたり引っ張り合ったりすることになる。 「はとさんいるねえ、ヴぁーぱ(ポスト)あったね」なんて悠長に会話しながら歩くなんて全くかなわない。 無論、車や自転車や通行人からも身を守らねばならない。 息子にしてみれば、公園の滑り台1回滑りたいし、排水溝の水のぞいて見たいし、ガードレール触りながら歩きたいし、カラーコーンがたがたやりたいし、マンションのエレベーターのボタン押したいし、パン屋に寄って行きたいし、自動販売機をくまなく探索したいし、もうやりたいことだらけで、道を進んでいる場合ではない。 どうしてお母さんは僕のやりたいことだけ阻止するのか、となるのも当然のことだろう。 しかし休日の散歩とは違って、保育園に行くには時間も限られている。 度々とっ捕まえて抱き上げて進みながら、それでも手をつないで歩き進んで、20分弱くらいをかけて保育園に到着した。 息子の小さな手を離さないように握って、20分間緊張しながら歩くのは骨が折れた。 先生はとっても褒めてくれたけれど、週明けで私と離れることが嫌だったらしく、うわーと泣いた。 とても小さな日常なのだけれど、渦中の当人たちにとってはなかなかに大変なことだ。 とても小さな日常で、しかも大人にとっての大した発見があるわけでもないので、何かしら子育ての一コマを外界に向けて発表するのは、子育て渦中の人たちとそうでない人たちの受け取り方に温度差が出やすいだろうと思う。 子育ては最高のクリエイティビティだ!というような言い方があるように思うが、決してそうではないことも多くある(あるいは瞬時に目に見えてクリエイティブなことは少ない)ので、子育て渦中の人たちとそうでない人たちの子育てに対する観念の差は埋まらないという面もあるのではなかろうか。 当人たちにとっては大いに価値の高いことだったとしても。 現代社会一般的に子育て事情が閉鎖的になりやすいのは、こういったこともあるのだろう。 たとえ自分の子どもであっても、四六時中見ているのは無理がある。 夫がよく言うが、ひとりの人間をひとりで背負うことはできない。 できるだけ多くの人に世話をしてもらうことが良いのではないかと、我が家では考えている。 子育てについての、言うなれば何か社会貢献をしたいと思っているのだが、上手く思い描くことが出来ない。 私が抱いている子育て界隈の違和感が、まだ私の頭の中で整理されていない。 そうこうしているうちに、濁流息子が帰ってくるので、また散らかってしまう。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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