全くもって義務ではない毎日の書の提出物を、私は急で大事な用事の際にも忘れずに欠かさずに出し続けている。
海外旅行のときも、葬式のときも。 出先では筆ペンのことがほとんどだけれど、泊まりグッズよりも筆箱と紙の容積の方が場所を取っているくらいだ。 これは泊まりグッズを全然持っていかないというのもあるけれど。 何かを始めるとき、それを終えることまで考えた方が良い、ということを聞いたことがあるが、それは本当だろうか。 何かを始めるとき、そのような冷静な気持ちはない方が飛び込んでいきやすい。 終えることを考えていたら何も始められないような気もする。 しかしながら、私はこの毎日の修行をいつ止めるのか、ほんの少しだけ気を揉んでいる。 例えばSNSとか、例えば何かしらのサークルとか、習い事とか、自分ひとりで完結しないことは様々な人間関係を生むものだから、それを終えたいと思っても終えがたいという状況が出てくるだろう。 しかしながら、何が面白いかって、とても多くのケースで他人とのコミュニケーションという部分があるだろうから 誰かが見ていてくれるから頑張れたり、誰かが批判するから燃えたりするわけである。 つまり、私たちはかなり広域のシチュエーションにおいて、自分の感情の結構大きな部分を、他人を通して計っているといっても過言ではないだろう。 もちろん、たったひとりでとても満足するということもできる。 ただやはり、それを例えば後日に誰かに話したくなったりもする。 コミュニケーション欲求というのは、往々にして「自分の思い通りの」コミュニケーションがしたい、ということである。 それは単純に自分に同意賛同賞賛承認してくれる人とのコミュニケーションということではなく、複数人でその何か感覚を分かち合ったり増幅させたり、あるいは一見逆なで合うようなことについてさえも一種の「自分の思い通りの」コミュニケーションといっても成り立つ場合は多々あるだろう。 あと、当たり前だが、コミュニケーションはひとりでするものではないから「自分の思い通りの」ということが叶わないことも起こり得る。 奇しくも今日の書の画像の一番目のものが「人の喜ぶことを心がけよう」なのだが、それを自分で実践したつもりでも相手は喜んでくれるとは限らない。 もっと言えば、喜んでくれたそ素振りをされてそれに気づかない場合だってあるだろう。 もうこうなってくると、どうして良いかが分からなくなる。 誰かを傷つけたいわけでも毛頭ないし、他人の気持ちを推し量り過ぎて自分を殺すことにも何の意味もない。 全てはバランスというところに尽きてしまう。 大事なことは、「自分の思い通りの」コミュニケーションを諦めないことなのかなと思う。 それは独りよがりということとも全然違って、各々がきちんとそれを携えて誰かと接すると言うことである。 展覧会の締切が間近である。 何にもやってなくて慌て始めたときにおじいちゃんが死んで、さらに慌てている。 題材探しに窮していて、ふと目に止まったのが浄土真宗のお経だった。 おじいちゃんとおばあちゃんが、施設に入るまでほとんど一日も欠かさずに毎日読経していたものだ。 私の耳にも残っている。 そしてたった今、おばあちゃんも死んだといもうとから連絡がある。 おじいちゃんを追って逝ったのだ。 また帰るのだ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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