相も変わらず好き勝手歩く息子をやむを得ず連行する日々なのだが、やはり少し慣れてきた感じがある。
あきらめられてきた、というか。 山頭火の「赤い壺」というエッセイ?日記の一節に、「『あきらめ』ということほど言い易くして行い難いことはない。 それは自棄ではない、盲従ではない、 事物の情理を尽して後に初めて許される『魂のおちつき』である。 」というのがある。 数年前不意にこの文章を読んで私は、静かに、でも派手に、膝を打った。 この一節を展覧会の作品に仕立てもしたし、その後何度か書にしている。 山頭火のこの文章を知ったからというのもあるし、「あきらめる」ということの語源は「明らかにする」から来ていると何かで知って、そして仏教用語の「諦観」とも相まって、「あきらめる」ことへの概念が変わり、以降日々何かしらの「あきらめ」をしながら生きている。 無論、一般的に使われるように「継続していた何かを止める」ということではなく、この「あきらめ」は、例えば「もうあきらめる!」と高々と宣言したところでなし得るもの毛頭ない。 身体全体でそのことについて納得をする、というような感じであって、今その時の意思でもってできることではないのである。 考えることは頭だけですることではなく、全身ですることだ、と言ったのは夫であるのだが、私もいつからか身をもってそうだと思っている。 言葉が浮かんでないときにも、心の片隅にあることは遅々とでも、また眠っているときにさえ、考えることを止めないような感じがする。 そして、何かが言葉になって明度を増して認識するに至ったり、あぁもういいか、と本質的にその事柄と距離をとることが出来るようになっていたりする。 しかしながら、「魂のおちつき」まで、何日、あるいは何年かかるかまったくわからない。 だから「あきらめ」られていないときは辛さもある。 子育ての日々の悩みについて、私の感覚では今のところ、およそ3週間から1か月くらいで辛さからの光が見えてくることが多い。 渦中においては「これがずっと続くのではないか」という不安が膨らむものであるが、その渦中にいてもとりあえず3週間から1か月くらいは腐らず様子を見てみようと思うことにしている。 きっと何かが転じると信じるのである。 3週間から1か月だって、渦中にいればとてもとても長い。 でもとりあえずでも目途があるのとないのでは気持ちが違う。 ただ、子育ての場合は、問題となっている子どもの変化のスピードが大人よりも劇的に早いので、日常的な悩み事は月単位、年単位には長引きづらいのは助かると言えば助かる点である。 今回の件については息子はあまり変わっていないのだが、私の方が慣れてきたことと、対処の方法が身についてきた。 緊急事態宣言最中のゴールデンウィーク。 雨降りの中、車を借りて、電車を見に行く。 荒川線の路面電車は間近で電車を見ることができる。 息子は加速度を増して、電車ファンになっている。 好きなものがあることは、良いことである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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