腕の中に子を抱く。
人はこんなにも誰かに体重をあずけて眠ることができるのか。 感心するほど安心しきって、手も足も胴も頬も唇さえも、重力のままにその重さを私に乗っけてくる。 私はそれを見て、愛おしいと思う一方で純粋に羨ましいと思う。 お腹いっぱいでどこの痛いところも無く、全ての力を抜いて、自分以外の体温を感じながら抱きかかえられて眠る。 それを貴重だとかこの上なく幸せだとか、そんな言葉をあてがうことなくただ心地よいことと味わえるのは子どもだけの特権なのかもしれない。 本当のことには言葉も概念も要らない。 泣いて声をあげれば抱き上げてもらえる、それは身体が小さくて可愛らしい姿をし、愛くるしい声を出せないと叶わないのだ。 安心できることばかりではない外の世界に出るまで、また外に出てからも私の腕の中にいるときはせめて、真っさらな安寧を与えてあげられたら良い。 私は姪や甥を見ていてもそうだが、親目線と言うよりかは子目線、と言うよりかは、子の立場における自分目線で彼らを見ている。 それは自分の子どもではなかったからなのかと思っていたが、自分が親になっても尚その目線がなくなることがない。 瞬く間に7月が去っていった。 まだ体温調節がうまくできない赤子と一緒に、一日中クーラーのきいた快適な部屋で、猛暑を肌で感じることもなく、大好きな夏が佳境を迎えているようだ。 家の中は大好きだけれど、そろそろ外の世界を自分の足で歩きたいものである。 コンビニやスーパーに出かけるリハビリもそろそろ良いだろう。 脚力はもとより体力、全身の筋力がガタ落ちなのがとても残念であるし、気がかりである。 息子は、生後半月ほどで寝ている状態で90度以上も回転することができるようになった。 今にも寝返りを打ってしまうのではないかというほど軽快に動いている。 しかし、たとえ寝返りが出来たとしても戻ることができないのでうつ伏せになったまま窒息しないか、危険にしかつながらないのが怖い。 何があっても私が絶対にこの子を守ります、といった正義感ではなくて、子を死なせてはならないという使命感は心よりも身体が主導している感じがある。 母親のプログラムに組み込まれているかのようだ。 深夜、どんなに眠くても子の「ふぇ」と小さく泣く声でも目が覚めるし、すやすやと音も立てずに眠っていれば手を握って温かいかを不意に確かめている私がいる。 危機的な猛暑だというニュースの連続的な放送に辟易とする。 私はテレビのニュース、とくに昼下がりのワイドショーは気分が滅入ることが多いのでほとんど見ないのだが、けいこは情報源がほとんどテレビなので否応なくワイドショーも耳にすることになる。 帝王切開の傷の痛みは少しずつ減ってきて、痒みに変わってきた。 その代わりにおそらく授乳のせいで左の背中が大層痛い。 しかしながら、妊娠中よりも今の方が総合的に断然良い。 私は、我が身でない誰かと同体となることが耐え難かったのだ。 それが、子を宿す、妊娠というものだけれど。 夫が優しさで買ってきてくれるソルダムが美味い。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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