私には日記を書きたいという欲求が少なからずある。
なぜだか分からないけれど、昔から文章を書くのが好きだった。 コミュニケーションにおいては、対面で話すことよりも、電話で話すことよりも、メールや手紙が好きなのは、自分の言うことを一旦自分に戻して確認推敲できるからである。 けれど、読むことはさほどというか全然と言ってもよいほどできず、書く方も空想を必要とする小説は点でダメで、もっぱら日々の出来事や考え事を綴りたいのである。 なんだかんだと10年、いや初めてブログを書き始めてからもう14年ほどもブログのある生活を送っていることになる。 今、子どもを見ながらの生活では文章を書くまとまった時間を取ることが難しい。 だからその部分においては埃が積もるほどの欲求不満が、少しずつながら着実に山積している。 日々時々に湧く書きたいという欲求は、少し経つと薄れ、また立ち上りまた消えてゆく。 何か書きたいテーマがあった場合には、その新鮮さは徐々に風化し劣化し、おそらくそのうちに忘れてしまう。 忘れてしまうくらいのことはその程度のことだ、と言えなくはないけれど、そのことを私は少しもったいない気持ちに思うことが、欲求不満の一片であるだろうと思う。 流れ流れゆく、とどまらない一刻一刻、消えてしまうかもしれないけれど足跡を残したいのである。 また、文章を書くということはそれなりに頭を使っているように思っているので、日々衰えゆく脳みそを何とか鍛えているという気になる。 逆を言うと、文章を書かないと言葉を扱うことが下手になる、そして馬鹿になる、というような焦燥感が私にはある。 書くことは、書き始めにテーマがなくても構わない。 無論、文章の全貌が見えているということはない。 何でも良いから何か文章を書きたい、とまっさらに書き始めることさえままある。 ブログの編集ページを開いて、目の前に見えた「観葉植物」という言葉からそういえば日々思う「観葉植物」に対する何かを書き始めることもある。 そのため、文章は書きながら方向性を見定めていくというか、行ける方向にのらりくらりと向かうことになる。 要は考えをまとめながら紡いでいるので、それなりに集中することが必要である。 それには、ひとりで息子を見ている場合には、息子が寝ている間を狙う他ない。 寝ていてもなお、変な声を上げて起きそうになるとひやひやする、実際に今もそうであるが。 ちなみに、この欲求不満と息子が相変わらずべらぼうにかわいいは別の話である。 夫の計らいで、久しぶりに近所の銭湯に行った。 何か月ぶりだろうか、サウナはない銭湯だったけれどとてもわくわくした。 産後まだまだ戻らない体型と、帝王切開の傷跡を、銭湯の大きな鏡で一瞥する。 まあこれは仕方がない。 熱い風呂は苦手だけれど、熱くて大きな風呂に足を伸ばす。 熱さと大きさによる刺激は、大いに私の体の血流を促したようで、最近息子の体重に影響するほど出が悪くなっていた母乳がはちきれんばかりに回復した。 銭湯から戻ると、息子ははちきれんばかりに怒っていたが、久しぶりのだくだくのおっぱいに吸い付き、むせていた。 そして今、30分も経たない朝寝からユニクロの商品配達のチャイムで息子は目を覚ましてしまった。 ここまで書いたので、もったいないので、推敲はしていないがアップしておく。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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