出品を終えた。
漢詩とかな交じりの作品を1点ずつ。 漢詩作品はやっぱり面白い。 線がたくさんあるから。 忙しいのによく頑張った、というのは自分だけに細やかに囁くことにしよう。 頑張ったか頑張っていないかは、作品の評価の対象にはならない、なってはいけない。 ただ、作品の善し悪しがあるだけだ。 漢詩は一番最後にもう1枚だけ、と書いた作品が、かな交じりは途中経過でなんだか空きがおかしくなってしまったか?と思ったものが先生に気に入られた。 出品の際に複数枚を選んでいただくべく持っていくのだから、あとは先生の判断に委ねる。 もし私はこの1枚がどうしても譲れない!ということであれば、1枚だけ持っていけば良い。 しかしながら、最後に書いたものが一番良いというのはなんだかホッとする。 積み重ねたことは無駄ではなかったのだ、と鍛練が報われる。 これはおそらく私が書いた今作の「六月二十七日望湖楼酔書 蘇軾」に思い入れがあまりないからだろう。 詩の気持ちを!ということを抜きにして、単純に字を書く、書を創る、という点にフォーカスできたということかと思う。 詩の気持ちを!という気分で書くと多くの場合、最初に書いたものが一番良いということになる。 気持ちの体現に最大の重きを置いても、それはその気持ちを何度もなぞっているうちに疲労が溜まったり飽きてしまったり外の空気が気になったりしてしまうものだ。 混じりっけない気持ちなど長くは続かないものだ。 あのときの気持ちなんて正しく同じ熱量で呼び起こせない、戻せない。 これまで私は好みの傾向として、どうにもならないこの気持ち!みたいな表現物に取り付かれてきた。 今だって大好きである。 けれども、それでお腹がいっぱいにならなくなってきた、というのは事実かもしれない。 何はともあれ芸事は、いつだって終わりなき旅路の途中、であって、納得なんていくものではない。 しかし、気持ち!ということを最重要視してそれが作品に最もうまく乗ることができたのなら、それはその地点の納得にはなり得るかもしれない。 後のちに観て、あれはもうできない、最高にいい感じだ、となり得る一方で、今あれをそのままもう一度できないし特にやりたくもない、となってしまう。 過去の気持ちが乗った過去の作品として納得できたとしても、最重要視した気持ちはすでに今この時点の気持ちとは異なってしまう。 芸事も人生も似たようなものかもしれないけれど、人生には終わりがあるという圧倒的な違いがある。 その人が死ねばその人の行う芸事は終わる、しかし、芸事本体は形を変えていくかもしれないけれど芸事本体はきっと残る。 あるいは、その人の肉体は滅ぶけれども、その芸事とともにその人もある意味で残ることができる。 このことは、私が美しいなと思うことの一つである。 でもやっぱり、その人本体は消滅するし、その人自身が生きているという感覚も当然消滅する。 久しぶりにブログを書く。 いつもと同じことを今日の気分で書いている。 久しぶりに花の写真を撮る。 とても楽しい。 久しぶりにロケット鉛筆を手にした。 懐かしくて嬉しい。 久しぶりにある人から連絡をもらう。 今回は会えなかったけれど、単純に嬉しく思う。 久しぶりに俳句を作る。 全然作れなくて、困る。 美味しく食べる、美味しく飲む、よりもやりたいことがある。 今は。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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