作ったごはんを食べてもらえないストレスというのは、自分が思うよりもずっとダメージが大きい。
何なら泣けそうなほど胸の中心部が苦しくなる。 深呼吸しようとするけれど、なかなかうまく空気が身体に入っていかない感じがする。 2歳の息子に立て続けにごはんを拒否された、という大変よくある取るに足らない話なのだが、ごはんを拒否されるというストレスは本当に思うよりも大きい。 最も拒否され続けていたのは、彼がまだ1歳にも満たない時期、母乳量が減ってきてミルクを飲ませようと苦心していた頃だ。 作っては流しに捨て、作っては流しに捨て。 離乳食もほとんど食べられずに床にぶちまけられたり、そのままゴミ箱に捨てたり。 体重は増えないどころか減ったこともあり、医者にカロリー不足だと言われ、「砂糖水でも良いから飲ませて」と言われ、涙ぐみながら帰ったこともあった。 「食べないのが当たり前」「お供え物だと思って」「1食くらい食べなくても死にはしない」 そうかもしれないが、どうしてもこれらのことには心から同意はできなくて、毎食が憂鬱であった。 あの時に比べれば今は良い、作ったごはんは食べなくともふりかけごはんと納豆は食べるのだから。 親心的に肉と野菜と色々食べてほしいと、キャベツを入れたのがいけなかった。 ふりかけごはんと納豆と唐揚げと絹揚げ豆腐とヨーグルトと食パン、これをローテーションしていれば良いものを。 このような経験をした皆が大きなストレスを感じるかどうかは定かではないが、程度の違いこそあれ、そう感じる人も少なくないのではないだろうか。 巷にはよくある類の話なので、それはすでに笑い話のネタになったり、漫画化されていたりもする。 しかし、当の現場では昇華前の悲しみと怒りに満ちたストレスが渦巻いているのではないか。 偏食さんを持つ親たちは、毎度同じものを出されても良いわけなので楽だという見方もある。 確かにそうとも言える。 しかしながら、食べるものは身体の成長や心の安定にも関わる大切なもの、食は自分の身体を使ってできる最高のエンターテインメントのひとつ、そんな観念も無論是としているから食べるということに対してこちらが諦めきれない。 と言っても、かく言う私自身が食べるということに対してさほど興味がある方ではないし、偏食さんではない子の親たちから見ればだいぶ食育に諦めをにじませている方だと思う。 結局、このようなことを繰り返して気分を落としたりして、また、とにかく食べれば良い、という結論にたどり着く。 ひとつ息子に言いたいのは、食べない判断を下すのは、食べる前の見た目ではなく、食べてから味で決めてほしい。 それはそれで作った側は傷つくかもしれないが、食べてみたら美味しい、というものがほとんどのはずである。 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」 山本五十六の超有名な教えであるが、一文目を大いにやってもなかなか動かないのが、偏食さんたる偏食さんである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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