最近「フリースタイルダンジョン」というヒップホップの番組を録画して見ている。
ヒップホップは、相手のことをディスる、という文化が私には怖いように思えてなんだか食わず嫌いをしてきたような節があった。 しかしいつかにフリースタイルラップのバトルを観てから興味を持つようになった。 その時に「8 mile」もこれまた遅ればせながら観た。 フリースタイルはDJが流した音楽に乗って、即興で膨大な言葉を音楽に乗せながら紡いでいく。 対戦相手が言うことに対して、相応の論理性のあるリアクションをしなければならないし、時にその中で韻を踏んだりもする。 とにかく、何がどうなってそんなことができるのだろうと度肝を抜かれたことがきっかけで見るようになったのだけれど、ただそれだけではなくてとても感動させられたりもするのである。 例えば落語家が一人で何十分も物語を暗記して喋り続けられるのも恐ろしく凄いことだと思うし、ジャズ演奏者がコード進行とメロディだけの譜面を見て音楽を奏でていくのも同様に、何がどうなってそんな芸当ができるのだ、と単純に理解不能でとても凄いと思う。 落語もジャズもフリースタイルのヒップホップも、無論、話を覚えただけ、言い回しを覚えただけ、ジャズのフレーズを覚えただけ、で良いものができるわけではない。 演技や発声の仕方、楽器の演奏、リズムの取り方、音楽への乗せ方などとてもたくさんのことが必要とされる。 しかも、観客や他の演奏者や対戦相手のリアクションを込みにして展開されていく「即興性」と「コミュニケーション」がそこに存在する。 この3つの中で言えば、落語が一番「即興性」や「コミュニケーション」が少ないのだろう。 即興と思われている大喜利は放送作家の脚本があると聞いたことがある一方で、落語は十分に即興性が必要だという話をどこかで耳にしたことがあるので挙げてみただけだけれど、それらの有無が良いとか悪いとかではなく、面白い面白くないとかでもなく、好きとか嫌いでもなく、本物の「即興性」とそこにおける「コミュニケーション」に私は興味がある。 ある人に言わせれば、麻雀なども「即興性」と「コミュニケーション」に富んだものと言うだろう。 特にジャズやフリースタイルのヒップホップといった中で特に存在する「即興性」やそこの間で行われる「コミュニケーション」のあり方を私は本当に尊敬している。 まず場慣れということも大いに必要だろうけれど、とりあえず引き出しの量は多ければ多いほど良いだろうし、無論その引き出しを的確に引き出す能力も必要とされる。 そんな日頃の訓練を経て、”今、ここで、すぐに”自由自在に溢れる音や言葉を扱うことができるのはなんて凄いことなんだろうと思う。 もちろんどの分野でやる即興も、即興と言えども枠組みやルールはある。 日常にする人との会話も、例えば日本語という言語ルールにおいて行われていて、「即興性」や「コミュニケーション」があり、ちょうどまさにそれらに似たようなものである。 けれど、それを表現物にする、作品にする、ということが私にとってとても憧れなのである。 まあ麻雀に作品性は乏しいけれど。 ジャズ語やヒップホップ語、麻雀語、という言わば言語ルールは、ジャズについて、ヒップホップについて、麻雀について、それらの話題を日本語で誰かと会話するということではなくて、それそのものでコミュニケーションが可能なのだと思う。 しかも、そのコミュニケーション手段というのは、日本語や英語などの通常言語と時と場合によっては同等もしくはそれ以上くらいといっても過言ではないのだろう、とそれらをやらない私は何となく想像している。 そしてそのことが羨ましい。 英語だってフランス語だって、言語を習得するということは当たり前だけれど容易ではない。 到底自分ではできそうにない作品としてのそれらを見たり聞いたりして、驚いたり感動したりする。 書では「即興性」はなくもないけれど、それそのものを媒介しての「コミュニケーション」は存在し難い。 例えば、一枚の紙に代わり番こに線を書いていくとか、差向いになって相手の書に返事をするような書を書くとか、そんなことが成立すれば「コミュニケーション」も存在できるのかもしれないけれど。 a.k.aとかライムとかフロウとかイルなスキルとかレペゼン、そういう超初心者ラップ用語を覚えて、I represent me!! と言われたときに、訳し方が合っているか知らないけれど、私はいつものようになんだか泣きそうになってしまうのである。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|