なんとまあ前回のブログを書いたのは半月以上も前である。
息子が寝た後の夜の時間を取り戻そうとも思っていたのだが、やはり一緒に寝てしまっている。 どうにか生活のパターンの見直しを図らねばならないと感じている。 何だか非常に滞っている感がある。 それはまもなくやってくる師走の影響もあるだろう。 こういう時はきっと焦るべきではない。 動悸を真に受けてはいけない。 性急なのは良い結果を生まない。 と思う。 しかし最近少しだけ良いことがあって、それは、読書、についてである。 まず、私は本当に本を読むことが苦手である。 言葉は比較的好きな方のはずなのだが、とにかく所謂読書が遅々と進まないのである。 私は本を読んでいるときにとにかく集中できず、字面だけを追って別のことを考えてしまう。 小説などを呼んでいても、外界はもちろん気になるし、あるいは文中の表現について書き手に思い馳せてしまったりして内容が入ってこないのである。 加えて、この散漫な現象を自分で理解しているがゆえに、自分に起きている現象についても思い馳せてしまったりして更なる悪循環を生む。 たまに本の世界に没入して話しかけても気づかない、というタイプの人がいるが、一体全体どういう感覚なのか、本当に知りたいものである。 これまで何度も読書好きになりたいと試みてきたのだが、全く定着せずにここまで来てしまった。 一方で動画や音声は頭に入ってきやすいので、お字書きをしているときはたいていYouTubeを聞いている。 もちろん流し聞きなので内容をよく理解しているかと問われればイエスとは答えにくいが、それでも読書よりは内容が入ってきやすい。 しかしながら、娯楽的に気を抜いて楽しむのではなく、何かまとまった知識を体系立てて得たい場合は、おそらく本の方が圧倒的に質が高い。 つまり所謂勉強のためには、様々方法はあれど、本を読むことは避けられないだろう。 ここ最近何年か、美術、という分野について細々色々と情報を集めてきた。 生粋の美術コンプレックスの私も、曲りなりにも”アート”に属する分野に手を染める人間のひとりである。 美術館やギャラリーに出向くことも、YouTubeの美術関連動画を視聴することも、美術に造詣が深い人の講義を受けることも、種々様々なことをしてきたが、しかしながらやはりもう本を読むしかないところまで来ていることはずっと分かっていた。 ふと、声に出して読んでみようと音読をしてみた。 いつもなら散り散りになってしまう思考が、比較的文章の内容の理解へと進んだ。 字面を追って発声するという行為をしなければならないので他に気が取られる余裕がないこと、自分の音声で外界の音が遮断できること、自分の声を聴きながら内容を理解できること。 音読をしながら、おぉ、と私はにこやかに驚嘆した。 読書が定着するところまでは全然至っていないが、これは良さそうな方法である。 外で読むにしても最近はマスクもしているし、ごく小さな声ならさほど問題もなさそうだ。 何度か繰り返しているうちに何だかものすごいスピードで音読できるようになってきた。 そうしていると今度は速読に躍起になって、また内容の理解が遠くなってしまう懸念も出てきた。 まだまだ先の長そうな私の読書である。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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