「医学に専念するので次回で一旦最後にします」と言っていた医学部の学生の生徒さんが久しぶりに顔を見せた。
三浪だか四浪だかして医学部に入ったのだそうで、そういう意味では苦学生なのかもしれない。 一般的に言えば全くもって苦学生ではないだろうけれど。 生徒さんとの人間関係は無論すぐに構築できるわけではない。 私はこんな感じです、私の方はこんな感じです、とお互い探り合いのようなところから始まる。 回数を重ねていくと、話してくれることも増えて、お互いに安心したり少し知り合ったような気分になるものだ。 医学の話や将来についての悩みをブツブツと話すようになってくれたことを私は嬉しく思っていた。 今日は、自分自身の資質についてと社会での立ち振る舞いというようなことを私たちは話しながら字を書いた。 常々社会のいろんなものに塗れていると、自分自身の資質について見誤ってしまうことがおそらく多々ある。 私もそうであったように思うし、今もこれからもそれについては危機感を持っていなければと思う。 自分自身の資質、傾向を正しく知ることは、社会というものから逃れられない私たち全員に思いのほか大切なことであると思う。 知らなければ対策も練りようがないし、諦めた方が良いことや諦めずにいたいことも分からなくなってしまう。 俗に言う「辛い」ということの半分くらいは、自分の資質や傾向について理解していなかったり覚悟できていなかったりすることから起こるのではないかと思うくらいだ。 あまりに社会軸に寄せる必要ももちろんないが、それを乗りこなすくらいの気概はあって然るべきであろう。 私がこのことを自分のこととして認識したのはごく最近ではあるけれど。 話というだけでなく、書というものを通すだけ、コミュニケーションは多様性を帯びて潤滑になることも多い。 言葉だけがコミュニケーションではないこと体感することは、私がこういうことをしていて良かったと思う大きなひとつのことなのかもしれない。 字を書くことが好きで、とりあえずなんかやりたいんです、と彼は言っていた。 そもそも、他に理由など要らない。 マズローに言わせれば書をやることは極めて高次元の欲求を満たすことに他ならない。 彼は古典を少しかじっていたけれど、試験の結果が思わしくなくて落ち込んでいると言うことろから、最後のレッスンは何の脈絡のないことをただ書いてもらうことにした。 「鶏」「仏蘭西」「つゆ」。 昨日焼肉を食べに行ったことや、フランスに行ったことがないことや、「露」なのか「汁」なのか書のニュアンスによって立ち上る何かがあることや、その場の書において関係があるようでないような、書はその紙面一枚で独立できるものである。 ただ字を書くことは楽しいと思うから家で時間があればやってみてね、と私は伝え、試験に合格してまた遊びに来ます、と彼は3回言って帰っていった。 後のメッセージでもまた、試験に合格してまた伺います、と言っていた。 ついでに、先生の作品は上手くていつもいいなあと思っていました、とも言っていた。 私は私でまだまだだけれども、単純にありがとうございます、と思う。 私は受け身でしかないけれども、いつかまた来てくれるといいなと思う。 是非とも、立派なお医者様になってもらいたい。 区役所の本庁に転居届を出しに行くと、なんと90人待ちと言われる。 なんと90人待ち、およそ3時間待ち、何たることか。 出張所は空いていると思いますと案内され、30分弱ほど歩いて出張所に行ったら誰一人おらずすぐに手続きは終了した。 しかしながら、マスクをしていたとは言え、30分弱も歩いて花粉を浴びてしまった弊害が数時間後にやって来た。 ヒノキ花粉はこんなに酷かっけと思い、少しインターネットで検索してみると今年はヒノキ花粉の飛散量が異例であると出ていた。 身体は正直である。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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