兄が来ている。
私には兄がふたりいて、私は双子の姉妹で、4人きょうだいである。 今回来ているのは下の兄、親からすれば次男。 彼は独身なのだが、子どもが好きで、息子とよく遊んでくれる。 自分が子どもを持ってみてわかるのは、こどもはとっても大変だということ。 色んな子がいるとして、それでも皆、大変だ。 子どもの心の面でも、学力的な面でも、大きくなってからの仕事の面でも、そして家族皆の経済的な面でも、親は心配をしている。 そんなのが4人もいるだなんて、恐ろしいことだ。 たぶん、どんな家庭にも、一時は誰にも言えないようなことがあるのではないかと思う。 時を経て、悩みとして打ち明けたり、事が済んでから思い出話として話すことはあるだろうけれど、渦中にいるときは決して人に言えないようなことが。 どんな類の話だろうと、あるのではないだろうか。 子どもの数だけ、幸せも増えるのかもしれないし、困難も増えるのかもしれない。 子どもはひとりの人間であり、総じてコントロールできるものでは毛頭ない。 最近観た動画で、哲学者の東浩紀さんが「子どもはコミュニティの異物、突然入ってきたよそ者」というようなことを言っていたが、それにはとても納得した。 大人が、夫婦が、物事を進めるに際し、ある程度秩序だった人間同士が下す決断において少なからず「同意」が存在する一方で、子どもは全く同意なしに入ってきて、さらに確たる同意などを本人が下せる状況にもない。 人間のコミュニティは常に、同意のない他者の存在によって、突き動かされたりするものだ。 家族は大切、家族は一番、そういった社会通念の中で、家族構成の重要な一要素である子どもだけは、その家族になることを本人が同意して入ってくるわけではない。 もちろん親側にとってもそれは言えるかもしれない。 親ガチャ、子ガチャ、なんて言葉はそういった意味合いだろう。 私は家族というものを盲目には見ていないつもりで、家族だから大切、家族だから一番、とは思っていない。 だからと言って、家族は大切ではない、というわけでは毛頭ない。 しかしながら、家族が一番ではない、というのはそうかもしれない。 子どもがいる家族、きょうだいがいる家族、という不意の産物コミュニティと、多くの人は最も幼い時期を最も近く過ごす。 当然ながら愛着が生まれたり、憎悪が生まれたりするだろう。 この不意の産物コミュニティが時間を経て、構成員の皆がその不意であることさえも忘れて、寄り添ったり寄りかかったり寄りかかられたりする。 いつだって、良かったり、悪かったりするだろう。 子どもがいない家族関係、きょうだいのいない家族関係、というのは単純な個々人の”同意”だけで成り立つことが多いと思う。 例えば、子どもがいない夫婦、の関係は見ていて落ち着きが感じられることが多い。 その関係において「不意」であることがほとんどないからだと思う。 互いの同意がそこにあるからだと思う。 私が敬愛寵愛する「きのう何食べた?」というドラマが非常に愛おしいのは、二人の同意によってのみ成り立っている関係であり、加えていわゆる普通の男女愛でない稀有さを二人がとてもよく分かっているからだろう。 いつだって、良かったり、悪かったりする。 子どもがいても、良かったり、悪かったりする。 きょうだいがいても、良かったり、悪かったりする。 家族的な不意、の良さももちろんある。 <YouTube> 【数字シリーズ②】日本の数字の歴史。古代~平安時代まで!#049 【書道家対談シリーズ「うどよし」さん】テレビ出演多数、ユニクロコラボ!読める書道の追求-#050 <note> 【閲覧注意】書道用紙に住む小さな虫の話 「八万三千八」なんて読む?漢数字、和歌の世界。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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