あれよあれよあれよあれよ。
ものすごいスピードで日々が転がっていく。 一体全体、なにが起きているのだろうか。 こどもの頃、授業と授業の合間の10分間にドッジボールなどをしていた記憶がある。 25分の休みには、大掛かりに皆で遊ぶドロケイなどをやっていたかもしれない。 そのような内容のツイートをどこかで目にしたが、本当に本当に気が知れないことである。 ついでに授業中に眺める時計の針はとんでもなく遅々と進んでいたことも思い出せる。 今、私の感覚において、10分なんて時間はひと呼吸かふた呼吸しているうちに過ぎてしまう。 さっき11時だったのを確認したが、もう一度時計の方を一瞥するとすでに11時半を過ぎている。 この間に子どもはドッジボールもドロケイも両方できてしまうかもしれない。 すべての物事はどうにも主観でしか捉えようがないとすると、年を取れば取るほど、時間というのは絶対量も少なくなっていき、何かやろうとすると重要性や希少性が高まっていくことになる。 反対に、子どもにとっては、その潤沢豊富な時間にやることがないとすると、まさに時間の牢獄とも言えるような体験にもなりうるのかもしれない。 事実、確かに私の子ども時代には退屈という言葉であふれかえっていたし、特に休日の昼下がりに大人が皆昼寝をしてしまうような時間が嫌いだった。 かといって、大人になった今、今子どもである子どものあふれんばかりの潤沢豊富な時間すべてを満たしてあげることはできまい。 無論、親や友達だけでもうまくはいかないだろう。 ということは、自分だけで楽しめる、奥深い何か、できれば目に見える創作物がある何か、を手に入れることを子ども時代から身につけることは人生が豊かになりそうである。 好きなこと、熱中できることがありません、という悩みはおそらく思いの外多くの大人が持っているだろう。 私は息子のことは本当に大好きなのだが、所謂子どもが好きなように遊びに付き合ってあげることは得意ではない。 絵本を読んであげることも、一緒にハイハイすることも、お絵描きすることも、型はめすることも、しないわけではないけれど、本当に超短時間で私が飽きてしまって止めてしまう。 息子が気に入る動画を探して、そればかりを見せてしまったりもする。 このことに多少の罪悪感を抱かないわけでもなく、その罪悪感というのは薄く心底にこびりつくようなものなので案外しんどいのではないかと思う。 ここで重要なのは息子の意思である。 まだ息子は喋らないし、イエスノーの表現もあまりしないのだが、楽しそうにしているしていない、という状態は十分に見て取れる。 自主的にひとりで楽しめるものがあれば、こちらの罪悪感も少しは軽減できるのではないか。 まあそうは言っても、どのおもちゃにもあまり熱狂的になったことはない息子であるので、ここから試行錯誤ではあるのだが。 私の気紛らわしに、水で描けるお絵描きグッズを買ってみることにした。 あとは、地域の体育館で教えてもらった、猫用の自動で動くボールを買おうか。 大人が感じている濁流のような時間感覚と、余りある子どもの潤沢豊富な時間感覚の違いを自覚した上で、上手く付き合えたら良いなと思う。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|